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「ヤブ神」再び…

参考記事
『ヤボサガミ』
ヤボ神とハフリ

いろいろ考えてるんだけど、私は中臣大祓詞の「潮の八百曾」がアヤシイと考えてはいるんだけども、まあ、簡単に言えば海流のようなもんじゃないかって思ったんだけども、そういえば「家船」は「屋船」でもあるよなあと思った。
前記事の引用では、ヤホサ(あるいはヤボサ、表記は矢保佐とか矢房とかいろいろあるみたい)神社は、壱岐、対馬で最も濃密、みたいなことがあるんだけども、私は佐世保や平戸の方が多いと思うんだよな。
平戸や佐世保と言ったら、松浦でしょ。松浦党。
前記事「家船衆」でも出た「海夫」だな。その「海夫」の後裔が家船衆ではないかということなんだけども、鵜や鴨は「船」の象徴でしょ??そもそも、「ウ」は「浮く」の「ウ」だと思うんだよ。だから、船は「ふね」なんだよな。「ふ」も「う」も同じだからね。
つまりさ、生活の基盤が船上である海洋民の乗る船のことが「屋う(ふ)」じゃないのかな。それがなまって「やぶ」になってるんじゃないかしら。
そうじゃないと、松浦地域にヤホサ神社が密集している理由が説明できない。そのヤホサ神社の祭神がほとんど素戔嗚尊であるってことは、後の時代の付会だったとしても、素戔嗚尊は「海原を治めよ」と言われた海神でもあるんだから、妥当なんだよな。
まあ、これはヤブ=ヤホ(サ)とした場合のことだけども。
この場合のヤホサの「サ」は、その家船をおいた浜のことだろうね。

前記事の続き

前記事の「ひもろぎ」の「もろ」が天下るという意味であるという説だけど、これって「雨漏り」と同じなんじゃないのかな。
天から降ってるくものが「ひもろぎ」なんじゃないのかなあ。
神籬盤境(ひもろぎいわさか)ってのは、大元は隕石じゃないのしらね。
「木」とは語源的に違う「キ」ってのは、いったいなんだろうね。
「気」かなあ。
その「語源的に違うキ」と「木」ってのは、いつ分かれたんだろうな。
方言ができる前は同じだったってことだろうか。うーん。

<後日つけたし>
甲乙の差異については、例えば「き」を表す万葉仮名は支・吉・峡・来・棄などの漢字が甲類の「き」とされ、「秋」や「君」「時」「聞く」の「き」を表す。そして己・紀・記・忌・氣などが乙類の「き」とされ、「霧」「岸」「月」「木」などの「き」を表す。上代の文献では一部の例外を除いてこのように整然たる仮名の使い分けが見られる。
(Wikipedia「上代特殊仮名遣」より)
なんだそうけども、じゃあなんで「高来」は「たかく」なんだろうな。「来る」だから??じゃあなんでそれが「タカキ」という音(現代)になるんだろう??まあ「来て」では「き」とも読むけどさ。ん、じゃあ「高来」は「高支」でもいいってことになるね。
「ひもろぎ」の「き」は「乙類の木と音韻上違い」ということだけど、うーん。
つーか、私はこの、甲乙ってのはあんまし信用できないなあと思うんだよな。
漢字が入ってきて、日本語を万葉がなで表現する以前に、音が変化してる場合もあるんじゃないかと思うんだよな。

神籬(ひもろぎ)

形式は、八脚台という木の台の上に枠を組み、その中央に榊の枝を立て、紙垂と木綿(ゆう)を取り付けたものである。

古来、日本人は自然の山や岩、木、海などに神が宿っていると信じ、信仰の対象としてきた。そのため、古代の神道では神社を建てて社殿の中に神を祭るのではなく、祭の時はその時々に神を招いてとり行った。その際、神を招くための巨木の周囲に玉垣をめぐらして注連縄で囲うことで神聖を保った。古くはその場所を神籬と呼んだ。次第に神社が建てられるようになり、祭りも社殿で行われるようになったが、古い形の神社は、建物の中に玉垣を設けて常盤木(常緑樹、つまり榊など)を立てて神の宿る所とし、祭るものであった。後にはこの常盤木を神籬と呼ぶようになった。現在は、神籬は地鎮祭などで用いられる。

「ひもろぎ」(古代には「ひもろき」)の語源は、「ひ」は神霊、「もろ」は天下るの意の「あもる」の転、「き」は木の意とされ、神霊が天下る木、神の依り代となる木の意味となる。 ※異説:檜(ひのき)榁(むろのき)松(まつのき)などのように、待ち合わせの目印となる高木。会う、群がる木の意。但し、末尾の「き」とは甲類で乙類の「木」と音韻上違い、語源的には無関係である。

漢字の「籬」は垣根のことであり、「籬」は竹「垣」は石などで作られた物であるが、「垣」だけが常用漢字として両方に使われるようになった。 「神籬」の本来の読み方は「かみがき」「みづがき」であった。
(Wikipedia)

なのだそうだ。
前記事の「スメラギ」で「ヒモロギ」を思い出したんだけどね。
私はさ、「古来」ってのがいったいいつからかってのが気になるんだよな。意味はわかるんだけどね。古い時代から自然崇拝があったってことでしょ??
殷とかの時代からすでにあるっていうからさ、その殷以前からあるだろうし、まあいいんだけどさ。じゃあ、いつから「ヒモロギ」という音になったんだろうね。
この説明を読むと、「ヒモロギ」と「かみがき」は本来は違うってことになるんじゃないの??あげ足とるようで悪いんだけどね。漢字が入ってくる前から「ヒモロギ」という音はあったってことだろう。
「もろ」が天下るという意味があるってのがおもしろいなあ。「あもる」ってなんだろうなあ。「アマ」が動詞になってんのかしら。つーことは「ひあもろぎ」が本当だってことだな。「末尾の「き」と「木」は語源的には無関係」ってあるけども、じゃあ、なんで木を祀るのかしら??ここらへん書いた人が違うのかな??矛盾してるような…。
「もろ」が天下るという意味なら、スメラギで書いたように、「ひ(神霊=雷=天からの道)」が「あもる(落雷を受けた)」「木」が本来の意味じゃないのかなあと思うけどなあ。あ、「もろ」って「漏る」と同じなのかな。
うーん、「木とは語源的に無関係の『き』」っていったい何??城(高い建物?)のこと??
単純に常に火をともしていたってのも考えられるけどね。
倭人伝にはヒナモリってのがいるな。大豆のことを「きなこ」、たまごの黄身のことを「きなみ」、黄色のことを「きな」と言う(私の地元の場合「黄色い」ことは「きんなか」という)から、現代風に言うと「ヒモリ」なんだよな。
「日守」という地もあるでしょ??まあ、倭人伝のヒナモリは日神を祀る神官みたいなものだろうとは思うけどさ。あるいはヒコの従者だな。警護の人。
ん、「スモ」と「アモ」って似てるなあ…。スメラギ、ヒモロギ…。

この金印が目に入らぬか

 そのほかにもうひとつ、『山海経』といいまして、これはお化けの話とか、奇怪な話がいっぱい出てくる書物ですが、それには倭が燕に属しているという記載があります。この『山海経』という書物は戦国時代のものとのもいわれ、あるいは漢代のものともいわれていますが、いつできたのものか、はっきりとはわかりません。
(中略)
 ところが、次には、「永初におよんで難多く、始めて入りて冦鈔(こうしょう)す。桓・霊政を失いて、漸くますますそぞろなり」と記述して、安帝の永初年間(一〇七〜一一三)になると、東辺多難となり、東夷の入冦が始まり、さらに桓帝・霊帝が政治に失敗すると、ますます乱れてきたと述べています。この記述は安帝以後、中国と東夷との関係が秩序を失って、東夷の入冦が始まり、桓帝・霊帝時代になって、さらに、はなはだしくなったことを示すもので、後漢時代後半の東方の状況を示すものとして注意される記事です。そしていわゆる「倭国大乱」もこの時期のなかで出現するのです。
 さて、この序文中の最初の問題は、後漢初期に倭の来貢が示されていることです。つまり建武年間の初めに倭・韓が濊・貊とともに朝貢してきたということです。建武の初めといいますと、光武帝が位について、後漢王朝を再建した最初のころのことのようにみえますが、これはもう少し調べる必要があります。それは祭彤という人物が遼東太守になったのが建武十五年だからです。したがって、建武の初めといっても建武十五年以後のことでなければなりません。
(『邪馬台国と倭国』古代日本と東アジア 西嶋定生 著)

「燕に属していた」という証拠がさ、多鈕細文鏡じゃないのかなあ。あ、いや違うな。衛氏朝鮮か。ところで、その衛満が追い出した準はどうなったんだろうな。
韓地に逃げたはずなんじゃ??つーか、朝鮮は燕の配下だったんだから、その延長ってことか。小競り合いがあったとしても、所詮は秦や漢の支配下にあったワケか。たしか準のとーさんの時代が秦だったっけ。秦の崩壊のどさくさにまぎれて築いた政権ってカンジだな。
ここらあたりがさ、いろいろと問題があるのは、大陸南の長江流域南部と同じなんじゃないのかな。違ってるんだろう。気候も違うだろうし、文化も違うからだろうな。
この本でも述べられているんだけども、志賀島の金印がなぜに志賀島にあるのかってのがさ、謎でしょ??どういう意味なのかってのが。
奴国が儺県じゃないという意味じゃないんだけどね。やっぱり、有明海沿岸が気になるんだよなー。どういう関係なのかってのがね。
まあ、いずれにせよ、大陸の情勢をよく伺っていたってことだろうね。やっぱ「情報」だよ。これは韓地にいなければわからないことだよ。これは、青銅器とかの問題じゃないよ。情報に形はないからね。上役に伝えなければ意味はないでしょ??
「漢委奴国王」印はさ、後漢が崩壊すると意味がなくなったんだろうな。水戸黄門の印籠じゃなくなった。
うーん、やっぱり私は、「漢委奴国」と伊都国は部族が違うと思うんだけどなー。
「漢委奴国」は後ろ盾を失って、倭国内では失墜した。それに替わり台頭したのが、豊かな土地を持って人口も多かっただろう有明海の北岸地域のクニじゃないのかなあ。つーか、卑弥呼は共立されたんだから、「漢委奴国」も「女王国」に吸収されたととっていいんじゃないのかな。奴国には王がいるとは書いてないもんな。『三国志』魏志倭人伝には。
んで、なぜに伊都国には王がいるのかってのもおもしろいんだよ。伊都国は女王国じゃないでしょ??女王国に統属してるけども、女王国ではないんだよな。そういう意味では狗奴国と伊都国は似てるでしょ??
卑弥呼を共立したクニグニ(部族?)の中に伊都国が入っていたのかいないのかってことだよな。

スベルマナ

「天皇」のことをスメラギというね。

古代
天皇という称号が生じる以前、倭国(「日本」に定まる以前の国名)では天皇に当たる地位を、国内では大王「おおきみ」(治天下大王)あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称された。古くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称した。
(Wikipedia)

一番近いのは「統べる」かなと思える。意味は「ひとつにまとめる」ってことでいいだろう。でもなんで「スベル」という音が「まとめる」ということになるんだろうな。
スベルの元はなんだろうか??スブからきてると仮定してみようか。これに近いのは「住む」なんだよな。この「住む」の「す」は「巣」であり、住処のことだろう。「住まい」とか「住まう」とかと同じ「す」だな。つまり「す」の中に「いる」ことが「住む」ことじゃないかと。
つーことは、スメラギってのは、「住んでいる木」ってことになるね。まあ、神樹と考えていいんだろうけども。けれども、それ以前に、「木に住まう神様」という概念があったからそうなるんだろうと思うんだよな。
木のマタに子供を置いていく人もいたじゃない??誰だったっけ。大国主のヨメさんだったっけ??あと、山彦も木の上にいるね。神樹と言ったら三星堆遺跡の青銅器を思い出すね。

だけど、統一するという「すべる」がわからないんだよなー。どういう意味なんだろうなあ??「スベ」ってなんだろうな。「巣辺」かな??つまりさ、「巣がある」という意味で、ムラを表しているとか??
熊本や大分にある横穴墓は「巣」というカンジがするんだけどね。
「辺」っていうのは、漠然と「周囲」「周辺」って意味だろう。
物部は「モノノベ」と読むでしょ??これはヘンだよね。八戸とかも「ハチノヘ」と読む。「戸」っていうのは、家のことだからさ、「巣」と近い。記紀に「○○トベ(メ)」という名前が出てくるのは、女の戸主のことだろう。
だからね、「巣辺」ってのは近いんじゃないかなあと思うんだよな。自分が住んでいる周辺、それが「スベ」。モノノベっていうのは、「モノ」の住んでいるあたりのことを指してるんじゃないのかな。まあ、私はこの「モノ」ってのは「柄もの」のことで、鉄器のことだとしてるんだけどね。つまり、モノノベの場合は、鉄器に関連した集団がいたあたりを称して「モノノベ」と言ったんじゃないのかしらね(最初は)。
「統べる」の「すべ」もさ、「ムラ」のことだと解釈したら、その村の中心(キ)である場所にいる「長」を称して、スベラギ、スメラギと言ったんだと。ムラ、ムロももともとは、穴のことでしょ。
なんとなく、まだしっくりはこないんだけどもね。村長が、木の上に住んでるという意味ではないんだけども。身分の高い人が住まう背の高い建物のことは全部「キ」なんじゃないのかなあと思うんだよ。
牢名主ってのも、畳を重ねた上にいるね。まあ、関係ないんだけどね。
「皇御孫=すめみま」ってのも興味深いな。ミマが「皇孫」のことだというのなら、健津三間(たけつみま『肥前国風土記』)も弥馬升弥馬獲支も「皇孫」だということになるね。任那の「みま」も同じだな。あるいは弥馬升と弥馬獲支は「弥馬」と呼ばれた地の出身であるとも考えられるけどね。
やっぱり私は、ミマっていうのは、身分の高い人の治める土地という意味だろうと思うんだよな。「御場(間)」だな。
「天の真名井」というのがあるけども、これは水源のことだな。マナを潤す命の水の源のことだ。私のイメージでは熊本の水前寺あたりがぴったりだけどね。マナイが熊本にあるという意味じゃなくて、見た目のイメージですが。砂の下からこんこんと湧き出る水。あ、そういう意味では「水場(間)」で「みま」もイケルなあ…、これも捨て切れない。「マナ」に関しては、Wikipediaも参照してね。まあ、これを参照すると、ミマナは御マナで、天皇は韓地から来たんだという人が喜ぶだろうけども。ポイントは「マナ」の信仰は太平洋ってことだよ。つまり、海洋民の信仰でしょ??海で命が助かるのは??「島」だよ。水がある島だ。つまり、土地だな。

スメラギに戻るけども、これはもともとは人間のことじゃなくて、木を崇める信仰が先にあるんじゃなかろうか。まあ、こんなのは世界中にあるだろうけども。けれども、私が妄想するのは、落雷を受けた木がアヤシイなと思う。雷は天と地を結ぶ神様の道でしょ。それが繋がる木が神樹。

キングの秘密をこまこまと探ってみる

景行天皇。私的にはキング・オブ・架空。
つーか、一般的にも架空だろう。
んで、私は神功皇后も架空であるけれども、モデルとなった人(豊姫とか玉依姫とか)はいると考えている。
最近、景行さんもモデルがいるんじゃなかろうかと考えるようになった。
この人の出番は、九州がもっとも多いんじゃなかろうか。
ところで、『常陸国風土記』には「大帯日子」じゃなくて「大足日足天皇」となってるのだそうだ。私が読んだ『常陸国風土記』では、「大足日子天皇」となっていた。「足」は「子」の間違いだという意味だろう。
「天皇」を「すめらみこと」と読むと「おおたらしのひたらしのすめらみこと」と読むんだろうか??「大帯日子」の「帯」は普通は「たらし」とは読まないね。なんでこれを「たらし」と読むのか以前も考えたことがあったと思う。衣類の「帯(おび)」を垂らしていたからだろうと考えたと思う。
でも、はたしてそうなんだろうか??「帯」の場合と「足」の場合は違うんじゃないだろうか??
「足」は現代でも「足りる」という言葉があるから、なんとなく理解はできる。以前も「帯」は「たらし」ではなくて、「たり」「たら」と読むべきなんじゃなかろうかと考えたことがあった。
「おび」と「おみ」は似てるんだよなー。
「大帯日子淤斯呂和氣天皇」って、「大帯」の部分だけ「一文字=一つの音」じゃないよね。「天皇」の部分はおいとくとして。
これって「オホのオミ」の「ヒコ」の「オシロワケ」のミコトとも読めるよな。
それに、「大足」「日足」っての「日足」も「日足」という言葉があるんだから、それほど不自然じゃないんじゃないかな。「足」を「タリ」「タラ」と読めば、「おおたら(り)のひあしのみこと」で意味は通じる。まあ、一つの言葉の中で「足」の読み方が違うってのはどうかなとは思うけど。
とまあ、いろいろ考察してみたんだけども、この景行天皇のモデルって、帯方郡からの政治顧問団じゃないのかなあ。
景行さんは「周防→筑紫→豊後」とめぐり、熊襲退治をしてから有明海あたりまで来る。つまり九州をほとんど一周してるんだよ。だから、「周囲五千里余」ってことがわかったんじゃないのかな(数字が正しいのかどうかはおいといて)。
ここで物語を妄想してみると、張政さん一向と倭国側の役人とが一緒に、各地を回ってその地の豪族と話をつけたんじゃなかろうかと。
そもそも張政さんたちがさ、玄界灘を泳いできたわけじゃない。私は倭国側の船が帯方郡まで迎えに行ったと思うんだよ。対馬で船を乗り継いだりしながら、九州まで来たんだと思うんだな。
私はさ、韓地側にあったと思うんだよ、後に「任那日本府」と呼ばれるような場所が。棺桶を郡で預かってる国があったじゃない??どこだったっけ、高句麗だったっけ。つまり、王の代替わりをきちんと掌握してたってことでしょ、郡が。
だからさ、「大乱」になったとき、郡が干渉してきたんだよな、つーか、助けを求めたのか。
卑弥呼の死前後に、郡役所からみて一番権力がありそうなのは、難升米なんだよな。話が通じそうなのもこの人でしょ(難升米が中国語を話せた可能性もあるけども、少なくとも倭国の情勢に通じていたという意味で)。
この難升米と卑弥呼が血縁関係がないとしたらどうですかね。難升米側の氏族たちは、この親分をオウにたてたいと思うんじゃないかな。かつて後漢から金印をもらった「漢委奴国王」の「奴国」の人だとしたら、当然じゃないですかね。まあ、それはまだわからないけども。
難升米ってのは一般的にはナンショウマイとかナシメとか読むみたい。


 ローマ字表記
  普通話
   ピンイン: nán (nan2), nàn (nan4), nuó (nuo2)
   ウェード式: nan2, nan4, no2
  広東語
   イェール式: naan4, naan6
  ハングル: 난, 나
   文化観光部2000年式: nan, na
   マッキューン=ライシャワー式: nan, na
   イェール式: nan, na


 ローマ字表記
  普通話
   ピンイン: shēng (sheng1)
   ウェード式: sheng1
  広東語
   イェール式: sing1
  ハングル: 승
        文化観光部2000年式: seung
        マッキューン=ライシャワー式: sŭng


 ローマ字表記
  普通話
   ピンイン: mǐ (mi3), zá (za2)
   ウェード式: mi3, tsa2
  広東語
   イェール式: mai5
  ハングル: 미
   文化観光部2000年式: mi
   マッキューン=ライシャワー式: mi
   イェール式: mi
(Wiktionary)

ちなみにWiktionaryではこうあった。
「難升米」をどう読むのかってのは謎だけど、「なんしま」とも読めるよなあと思ったんだよ。「な」の「しま」さん。奴国の「しま」さん。奴国には兕馬觚という長官がいたよね。難升米の息子が兕馬觚(島子)とか。「浦島子」ってのがあるんだからおかしくはないよな。ナノアガタの島といったら、志賀島志摩町、つまり糸島がまだ陸続きになってなかった頃のシマとも考えられるからどちらかはよくわからないね。あるいは、旁国の中の最後の「奴国」かもしれないしね。熊本には玉名があるからな。泄謨觚ってのもいるよね。私はこれも「しまこ」だと思うんだよ。兕馬觚は「な」のしまこ、泄謨觚は「どっか」のしまこなんじゃないのかな。
まあ、私は金印奴国ってのが、後の女王国とどういう関係なのかってのがまだよくわからないから、なんとも言えないんだけども。「難升米」ってのは現代風に考えると名字みたいなものなんじゃなかろうか。本当は「な」の「しま」の「○○(通称)」と続くんじゃないのかな。
関係ないけど、私、伊都国の「柄渠瓢」と「掖邪狗」は同一人物だと思うよ。

話がそれたけども、景行天皇のモデル=張政さんでもおかしくないんじゃないのかな。もちろん、「よこなまれた」地名をつけて歩いたワケではないですが。
もし、そうだと仮定すると、健緒組(私はヤマトタケルのモデルの一人だと考えている)が同行していた可能性はあるよなあ。ヤマトノオグナとも名前が似てるしね。

北部九州や土井ヶ浜ののっぺり弥生人と、弁辰瀆蘆国の「背の高い人」ってのは同じ人じゃないのかなあ。あるいは、当時の中国人から見ても背が高いなあと感じるほど高かったのか。もし、そうだとしたら明らかに巨人族の末裔だろうなあ。

あ、まてよ??

「倭男具那命」をこの文字通り「やまとの男」の「具那命」ととったら、狗奴国が浮上してくるじゃない??へへえ、こういうのを考察した学者さんって今までいなかったのかな??

これはおもしろいね。倭男具那命が元狗奴国側の人間だったから、過労死するほどこき使われたってのも考えられるよな。

リポジトリってのはデータベースのことらしい、ふーん。

「長崎県立大学学術リポジトリ」の「011 長崎県立大学国際情報学部研究紀要」の「第1巻」の「肥前国高来東郷・高来西郷と高来一揆」がおもしろい。論文かな。
外山幹夫先生「高来の風」の著者でもある。

一 肥前国高来東郷・高来西郷について
1 高来郡の内部構造
(中略)
 以上のようである。これによれば、鎌倉末期正応五年八月十六日当時における高来郡の状況は、大きく庄園、公田(国衙領)の二つの部分に分かれていた。このうち、庄園として、伊佐早庄二五三町、千々石庄三〇町、髪白庄四〇町(元四十三町五反三丈)、山田庄二四〇町、高来有間庄八〇町、串山町二〇町があった。
 一方、公田(国衙領)として、高来東郷二五四町、高来西郷八三町があったのである。
 ところが高来郡内には、この他、さらに別符があった。すなわち、『八幡宇佐御神領大鏡』によると、そこに宇佐神宮領として、「伊佐早村田畠」や、「高来郡油山十二箇所」の他、「高来別符」「村田別符」「豆津別符」が記されている。その所属は何処とも特に記してはいないが、記載位置からして高来郡内の可能性が高い。同書は鎌倉初期の建久五年から七年の頃成立したとみられる。このように、鎌倉時代の高来郡は、右にみえるように形態上からしても複雑な様相を示していることが分る。
(後略)
(「肥前国高来東郷・高来西郷と高来一揆」 外山幹夫)

私が「ん?」と思ったのは、「豆津別符」。ホラ、対馬の豆酘、壱岐の筒城、あとの一つが不明でしょ??私は現川の「うつつ」じゃないのかなあと思った。

大きな地図で見る

ここだけどね。奇しくも、矢上だ。あれ、高城(たかしろ)台って新しい地名だと思ってたんだけど、高城神社ってのがあるのか。謎の矢上神社の近くだね。八郎川の支流みたいになってんのが現川川(うつつがわかわ)。八郎ってのはあの鎮西八郎の八郎からの名前だろうと思うんだよ。そしてここらは入江のような状態だったと思われる。だから、現川の方がほんとじゃないのかなと思う。

<歴史ひとこま>
高来津座 雲仙岳の土着神
 明治以前、この「高来の里」が久しく肥前国高来郡と呼ばれたことはいま記した通りである。大化改新(六四五)によって、全国が国郡県の行政区域に分かれることになったことは周知のところである。ところが、実際には、この区分が立てられたのは、七世紀末近くのことであったらしい。ところで、この高来郡の郡名になった高来の地名は、どうした由来によるものであろうか。
 この点について、八世紀につくられた『肥前国風土記』は、興味ある説明をしている。それによると、景行天皇が肥後国玉名郡長渚(ながす)(熊本県玉名郡長洲町)の浜の行宮(あんぐう)において、肥前国のこの郡の山を御覧になられ、この山の形は独立の島のようでもあり、或いは陸地に続く山のようでもある。何れかを知りたいとして、大野宿祢を現地に遣わして確かめようとされた。そのため宿祢が現地に着くと、迎えの者が現れた。その者は、自分はこの山の神で高来津座という者です。天皇の御使が来られると聞き、お迎えに参りましたと述べた。そこで、この山の神の名によって高来の郡という郡名がつけられたという。ここにいう山とは雲仙岳を意味し、大和朝廷による全国統一の過程を象徴する説話とみることができる。
 高来は『和名類聚抄』には多加久(たかく)と訓むとしている。高来は、また高木とも高城とも書かれる。武内理三氏は、高い崖の上に城をかまえている意味があるとし、雲仙岳に居を占めている神を指すとしている(『長崎県史』古代中世編)。
 古代人の山岳信仰によるもので、その一つが、雲仙岳の土着神としてこうした高来津座を考え出したものであろう。
 肥後玉名郡長渚から、有明海を隔てて正面に見えるのが雲仙岳である。ここから見ると、雲仙は霞んで見え難い時もあるが、その季節と時間によっては、茜色に美しく光り輝く時もある。そこからこの山と、本文で記した現代人の北高来郡に対する強い思い入れと共に、この山の土着神として、高来郡の語源となった高来津座が着想されたとみられる。
(諌早・北高の歴史と文化『高来の風』外山幹夫 著より)

この高来津座神の話と、伊古(いこ)遺跡から出たという土器は必ず関係があると思うんだよな。

www.city.unzen.nagasaki.jp/file/temp/7811199.pdfより
今回発見された土器群は、平成19年11月~平成20年1月の調査で検出された溝状遺構(幅3m50cm、深さ90cm)の中から発見された。弥生時代終末~古墳時代初頭の甕・壺・坏・鉢などの土器群で、器形が復元可能なものが多数含まれている。これらの土器群の様相は、熊本地方(菊池川流域)の同時代のものと同じで、中でも「長胴丸底甕や高坏、鉢」などは、その形や粘土の状況から、熊本地方から直接運ばれてきた可能性がある。これまでにも熊本地方の土器は、南島原市の今福遺跡や雲仙市の十園遺跡などで断片的に見つかっているが、今回のようにまとまって発見されたのは初めて。
弥生時代から古墳時代へ移り変わる時期の有明海沿岸の人や文化の交流を考える上で貴重な資料となる。

つまりさ、当時の政治的な中心が菊池方面にあったという証拠だと思うよ。つーかこれって、以前も書いたか。いーや、何度でも書くぜ。

あー、今現在の脳内状況で大学に行ったら、楽しいだろうなあ。

呉越と倭と呉(くれ)

呉 ローマ字表記
   普通話
   ピンイン: wú (wu2)
   ウェード式: wu2
  ハングル: 오, 호
   文化観光部2000年式: o, ho
   マッキューン=ライシャワー式: o, ho

越 ローマ字表記
   普通話
   ピンイン: yuè (yue4)
   ウェード式: yüeh4
  広東語
   イェール式: yut6
  ハングル: 월, 활
   文化観光部2000年式: wol, hwal
   マッキューン=ライシャワー式: wŏl, hwal
   イェール式: wel, hwal
(Wiktionary)

前記事で呉も倭も同じじゃないのかと書いた。もちろん国が同じという意味じゃなくて、元になる人々という意味だ。でもまあ、呉越同舟ってのがあるからなあ。縄張り意識が先祖代々(つまり太古の昔)あったような気もするなあ。
だけど、越も倭と同じだと思うんだよ。
そもそも「越」の「yuè」ってのは日本語ではイェだと思うんだよ。ヤ行のエだな。つまり「江」であり、「越(yuè)」って音はそもそも、川の人、あるいは水(海)辺の人という意味なんじゃないのかな。
川とか水とかってのは、人間にとって必要不可欠のものだから、言語が分かれる前から同じ音だったと考えてもいいんじゃないかな。
呉の方は「フゥ」みたいな音かな。これは日本語で言うところの「鵜」、「浮」と同じなんじゃなかろうか。つまり船に乗る人だな。
呉と越という(国じゃなくて)部族がさ、どう違うのかってことだけどね。太伯は断髪文身したんだから、呉も越もそういう風貌だったのかなあとは思えるけども。
私はさ、三星堆遺跡が羌じゃ無いんかなあと思うんだよなー。なんとなく「巨人」(羌=巨人だとして)ってのとイメージがだぶる。羌=巨人ではなくても、三星堆遺跡の青銅器人の像とか、巨人ってカンジがするんだよなー。

そうそう、広島の呉がなぜ「くれ」なのかってのを調べてみた。
「観光情報満載!くれナビ」の掲示板で、

呉市観光振興課です。お問い合わせのありました件についてお答えします。

「呉市」の名の由来につきましては、いくつか説がございますが、主な由来説を3つご紹介します。

①その昔、「灰ヶ峰(はいがみね)」の中腹に杉や檜などが密生した森林があり、そこから伐りだした建築や舟用の板材のくれ(長さ12尺×幅6寸×厚さ4寸の板材のこと)が特産品として販売されていて、それが有名になったたため、時代とともに「くれ」となったという説。「安芸風土記」には「呉を含む芸州一円が木材の産地だった」と記載があります。

②その昔、「灰ヶ峰」をはじめとする呉一帯をつつむ連峰を「九嶺(きゅうれい)」と呼び、それがなまって「くれ」になったという説。頼山陽は昔の呉を「九嶺につつまれた漁村」と書いています。ちなみに「九嶺」とは、「日佐子山(ひさごやま)」「八咫烏山(やたがらすやま)」「石槌山(いしづちやま)」「大迫山(おおさこやま)」「傘松山(かさまつやま)」「大根山(おおねやま)」「向尾山(むこおおやま)」「灰ヶ峰」のことです。

③その昔、呉周辺に住んでいた古代朝鮮半島からの渡来人を「くれ人」と呼んでいて、それが「くれ」となったという説。(高句麗→句麗→呉)

以上が主な由来説で、この他にもいくつか説があるようですが、呉市が「呉」として地名に残された史実は、約940年前の平安時代末期の資料に見られる「安摩庄呉浦(あまのしょうくれうら)」が初めてのようです。

以上です。よろしくお願いします。

> 3世紀に中国の呉より呉の軍隊が日本に来て大和政権を創ったとの説があります。(日本書紀の謎 竹田昌あき氏 徳間書店)
> 地形的に関係が有るような気がしますが如何でしょうか。
> もし関連する情報があればお願い致します。

と、丁寧な回答が寄せられていた。
私は、この行政の対応は素晴らしいと思った。さすがは都会だ。

日本海側なら高句麗も考えられるけれども、広島だからね。私は韓半島にいた呉の末裔あるいは、呉からの移住者あるいは、呉の文化を持っている人々がやって来たんだと思う。私さは、それが伊都国が支配していた倭地の人たちじゃないかと思うんだけどね。
ホラ、私は素戔嗚尊は伊都国人じゃないかと考えているから。

やっぱり蚩尤だと思うんだよなー。

蚩尤(しゆう、Chihyu。または蚩蚘とも書く。)は、古代中国神話に登場する神であり、三皇五帝のうちの一人、炎帝神農氏の子孫とされている。兵器の発明者とされ、霧をあやつる力があったとも言われている。

獣身で銅の頭に鉄の額を持ち、また四目六臂で人の身体に牛の頭と蹄を持つとか、頭に角があるなどとされる。路史によると、羌が姓とされる。
(中略)
この時、他に蚩尤に味方したのは勇敢で戦の上手い九黎族(ミャオ族の祖先といわれる。)、巨体の夸父族だった。
(Wikipedia)

あ、そうか。九黎がミャオ族の祖なら越は違うってことかな。
夸父族が巨人なのか。んー、これも周の始祖王武王の曾祖父だとかいう古公亶父と似てるね。

やっぱ、蚩尤は蜀のイメージだなあ。三星堆遺跡。

いや、これはおいといて。

「禹のアジール」ってのを考えると、馬韓の蘇塗と対馬の卒土同じとしか思えないね。そして対馬と壱岐には「日子」がいる。
伊都国ってのは、九州側の壱岐、対馬などの島嶼と朝鮮半島南部にあったであろう倭地の宗主国みたいなものなんじゃないのかな。
前も書いたけども、伊都国王は「伊都国」で治めてるんだよ。辰韓の王が「月支国」で治めるのと同じことなんじゃないのかな。その韓地側の倭地が後の「任那」なんだと思うけどね。うん、やっぱり素戔嗚尊は伊都国人だよ。
素戔嗚尊はいったん韓地へ行くけれど、そっちにいた一族郎党ひきつれてきたんじゃないのかな。それによって、北九州には箱式石棺が多くなるんじゃないの??

ちなみに、月支国の「月」って「ユェ」でしょ??「越」も同じ発音なんだよな。これもおもしろいね。月支国が越人でもおもしろい。

辰韓が後から来たから馬韓人に従っているってのはわかるんだけど、じゃあ、弁韓は??ってことになるんだよなー。だからさ、やっぱし閩越ってのが気になってくるんだよなー。前漢時代に滅ぼされた閩越人が、船で韓地へ逃げてきたってのもあり得る。

辰国ってのがあるでしょ??『魏略』の逸文が馬韓伝にあるじゃない??「朝鮮」の(?)右渠が東の「辰国」を利用しないことを宰相が諌めたけれど、聞き入れられなかったので、亡命したという記事が。
これもなんか意味不明だなあと私は思うんだよな。辰韓は昔の「辰国」であるってのと矛盾しませんかね。馬韓に支配されているような弱小亡命国をなんで頼るのか??だからさ、私は「辰国」と「秦から亡命した人の辰韓」ってのは別じゃないかと思うんだな。
あるいは、韓地は、自称箕子の子孫の準が亡命してきた地、あるいはそこにいた人々が「ハン」と(言う音で)呼ばれていたから「韓氏」を名乗ったから、韓と呼ばれるようになったのならまあ納得いくかな。

あ、また話がズレた。まだまとまってないんだよ。

韓半島の倭地を従えていたのは伊都国だよ。「漢委奴国王」の奴国と伊都国の関係はまだわからないけれど。

ホラ、素戔嗚尊が伊都国人であり、女王国と反発して九州を一端は出たけれども、韓地側の倭人を引き連れて、周防灘の沿岸の北九州地域を拠点にしたんだと考えれば、箱式石棺の増加とか、素戔嗚尊が牛頭天王とされるのも納得いくでしょ。蚩尤は角がある。

広島の呉は、韓地にいた九黎(ようするに三苗)族の子孫がやって来たんじゃないの??こういう風に考えると、時代は違うけれど、のっぺり弥生人がなぜに北部九州にいたのかってのも理解できるんじゃないかなあ。

伊都国は、北部九州というよりも、もう少し南の松浦地域と島嶼、そして韓半島の倭地にいた海洋民だよ。要するに、ドルメンのあった地域だよ。完璧な海洋民だな。素戔嗚尊は「海原を治めよ」と言われたんじゃなくて、もともと海原を治めていたんだよ。

新羅の建国神話だってアヤシイね。支配層が三姓あって、被支配層は六部だったっけ。馬韓人が王だったんじゃないの??なんで急にかわるのかしらね。おかしいでしょ??別に戦いがあったような雰囲気もないのに。

私は、韓地の三国の建国も帯方郡の差し金じゃないかと思うけどね。

そうそう、今給黎(いまきいれ)という名字があるでしょ??私はこれも九黎からきてると思うよ。つまり、「呉(くれ)」=「給黎」なんだよ。「今」ってのは新しいという意味だから、「本」もどこかにあるハズなんだよ。「今」と「本(もと)」は常にセットだ。

寿夢と朱蒙と周防と角力灘と諏訪はみな同じじゃないの??

寿夢
寿夢(じゅぼう、? - 紀元前561年、在位:紀元前585年 - 紀元前561年)は、春秋時代の呉の初代の王。姓は姫。名は乗[1]。去斉の子。紀元前586年、父の去斉が死去すると跡を継いだ。寿夢の代に呉は強大となり、彼が初めて王を名乗った。

寿夢には4人の子がおり、それぞれ諸樊・余祭・余昧・季札といった。死に際し、寿夢は兄弟の中で最も優秀な末子の季札に跡を継がせようと考えたが、季札は兄たちに遠慮してこれを辞退した。そのため、寿夢の死後は王位を兄弟間で順番に継承する方式を採った[2][3]。
脚注 [編集]
^ 『春秋左氏伝』より。
^ 『春秋左氏伝』では、呉王僚は「寿夢の子」(『史記』呉太伯世家では孫)である、と記されている。
^ 同じく『春秋左氏伝』で、蹶由(季札?)という息子がおり、紀元前537年の余昧の在世中に楚に労いの使者として派遣されるも、楚の将軍たちはこれを捕虜として霊王のもとに送られた。歳月は流れ、紀元前523年に呉王僚の在世中に、楚の王族でもある令尹・子瑕(陽匄)が平王に進言して釈放された、記されている。
(Wikipedia)

なのだそうだ。

寿    ローマ字表記
  普通話
   ピンイン: shòu (shou4)
   ウェード式: shou4
   広東語
   イェール式: sau6
  ハングル: 수
   文化観光部2000年式: su
   マッキューン=ライシャワー式: su

夢 ローマ字表記
  普通話
   ピンイン: mèng (meng4)
   ウェード式: meng4
   イェール式:
  広東語
   ピンイン:
   ウェード式:
   イェール式: mung6
  ハングル: 몽
   文化観光部2000年式: mong
   マッキューン=ライシャワー式: mong
(Wiktionary)

朱蒙は有名だからみんな知ってるだろう。高句麗の始祖とされている人物だ。
けれども、寿夢の方は呉だ。全く違う民族であろうに…と思われるだろうけどね。
単純に考えると、寿夢は太伯の子孫ってことになるね。つまり周の王室の流れをくむ由緒正しい血筋だということになる。
太伯は「断髪文身」して呉の祖となったワケだけども、似たような人がいるでしょ??「夏后少康王の子」で「断髪文身」して会稽に封じられたという人が。倭人の祖と言われてるけどね。
要するに「夏」が「呉」なんじゃないの??


象形又は会意。「夨」+「口」。口を開けて笑うさま(藤堂)、祭器を担いで踊る様(白川)。「娯」の原字。
 ローマ字表記
  普通話
   ピンイン: wú (wu2)
   ウェード式: wu2
  ハングル: 오, 호
   文化観光部2000年式: o, ho
   マッキューン=ライシャワー式: o, ho

倭 ローマ字表記
  普通話
   ピンイン: wō(wo1), wēi(wei1)
  広東語
   イェール式: wo1
  ハングル: 왜, 위, 와
   文化観光部2000年式: wae, wi, wa
   マッキューン=ライシャワー式: wae, wi, wa
   イェール式: way, wi, wa
(Wiktionary)

要するに、呉も倭も同じなんじゃないのかな。倭国としての倭人という意味じゃなくて、水辺に住んでいて「文身断髪」の人たちのことじゃないのかな。元祖倭族というかね。
断髪ってのは、たぶんおかっぱ頭みたいな頭だろうね。
『三国志』の韓伝の中で一番近いのは、済州島にいたという州胡が近いんじゃないかな。
夏と呉ではだいぶ時代が違うじゃないかと思われるだろうけども、夏ってのいうのはあくまでもまだ伝説だし、呉と言われた人たちが、呉の建国から突然産まれたワケじゃないからね。部族としてそれこそ「夏」の時代からいただろうからね。

興味深いのは、寿夢の息子が兄弟間で王位を継承したというところだよ。「新羅の建国」の時の王位を「朴」「昔」「金」の三姓で「持ち回りで継いだ」という点だね。まあ、こっちは収拾がつかなかったから暫定的にそうしたってのもあり得るけど。

いつの時代かはわからないけれど、朝鮮半島にも「倭人」(日本人という意味ではないです)がいて、日本側の倭人と同祖であり、似たような伝承を持っていたとしても不思議じゃない。それがどこかと言われたら、やっぱり馬韓か弁韓だろうな。
弁辰瀆蘆国の人が背が高いのなら、そりゃ、巨人族の子孫だろう。ただし、呉が巨人族だったのかどうかってのはわからないね。ミックスかもしれないしね。
怪しいのは、三苗なんだよ。

ミャオ族
ミャオ族の淵源を、漢代の『書経』「舜典」記載の「三苗」や、『後漢書』西南夷伝の長沙「武陵蛮」に遡る説もあるが、現在のミャオ族との連続性は明らかではない。古代の「三苗」以降、中国の史書は長い間南方民族を「蛮」と表記し、現在に繋がるとされる文献上の「苗」の初出は、宋代の紹煕5年(1194)、朱子が潭州(現在の長沙)に役人として赴任した際の、「苗」を「五渓蛮」の一つの「最軽捷者」とする記録(『朱子公集』巻71)である。ただし、「三苗」の国は揚子江中流域や、洞庭湖から鄱陽湖にかける地域(現在の湖南・湖北・江西)にあったとされ、現在でも貴州省のミャオ族には、先祖は江西にいた、もしくは東方の大きな川の畔や水辺にいたという口頭伝承が残っているので、相互を結びつけようとする学者や知識人が多い。恐らく、ミャオ族の先祖は、宋代以降の漢族の南下に伴って、揚子江流域から山岳内陸部に移動してきたと推定されるが、史料上で歴史的変遷を確定するのは難しい。 1995年頃からは、ミャオ族の祖先を蚩尤とする言説が急浮上した。これは、中国古代の伝説に登場し、漢族の先祖とされる華夏民族の黄帝と涿鹿(たくろく、河北省)で争って敗北した蚩尤を非漢族の代表と見なし、蚩尤と一緒に闘った九黎の子孫が南方に逃げて、後に「三苗」になったと説く。「三苗」は揚子江の中下流域にあったと推定し、北方からの漢族の圧力で、西南中国の山岳地帯に移動して、現在のミャオ族になったと主張する。しかし、伝説中の「三苗」と、古代の楚や呉を構成した人々と、現在のミャオ族との関連を実証する史料は存在しない。「三苗」「苗民」「尤苗」などの記述は秦漢以前の記録にとどまり、漢代の長沙・武陵蛮などを経て、宋代に至るまで、南方の人々は「蛮」と記されている。学問的には蚩尤とミャオ族の関係は否定される。これは費孝通が唱えた「中華民族多元一体格局」(1988)の議論に基づいて、1990年代に「中華民族」の統合を強調する中央の学説や、1994年に中国全土に展開した漢族主体の愛国主義の運動に抗して現れた、ミャオ族の知識人による新たな対抗言説である。 文字が無く口頭伝承で歴史を伝えてきた苗族には古代と現代を結ぶ客観的史料は存在しない。しかし、民族意識の高揚に伴い、蚩尤始祖説は定説の如く語られるようになってきている。敗北した蚩尤を非漢族の英雄に祀りあげ、ミャオ族の先祖は蚩尤であるとする考えは、ミャオ族の知識人の間では定説化して、反論することができなくなっている。ミャオ族は文字を持たず、口頭伝承によって歴史を語り伝えてきたが、まさにそれゆえに、実証的な歴史とは異なる独自の歴史意識を新たに作りあげようとしている。

つまりさ、蚩尤(しゆう)=巨人族であるとしたら、羌が巨人族なんだよ(蚩尤の姓は羌)。殷に生け贄にされた人たちだな。関係ないけど「涿鹿」って「瀆蘆国」と似てる。長江の中流域にいた人たちが、戦を逃れて、はるばる南米までたどりつき、治水遺跡を残したってのも納得いくと思うけどね。
のっぺり弥生人は、その巨人族ともう少し南の方の人たちとのミックスの可能性もあるじゃない??でも、こののっぺりさんが稲作をもたらしたワケではないと思うんだよ。稲作やってたのは巨人族だけじゃなかろうと思うからだよ。
うーん、やっぱ九黎=呉ってのはあり得るよなあ。なんで日本では「呉」が「くれ」なんだろうなあ。

あ、「蚩尤」と「周」って似てるね。同じなんじゃないの??

そうそう、「寿夢」と「朱蒙」だけど、自称箕子の子孫だという準も似てるんだよ。

準 ローマ字表記
  普通話
   ピンイン: zhǔn (zhun3)
   ウェード式: chun3
  広東語
   イェール式: jeun2
  ハングル: 준, 절
   文化観光部2000年式: jun, jeol
   マッキューン=ライシャワー式: chun, chŏl
   イェール式: cwun, cel
(Wiktionary)

「東明朱蒙」ってのは具体的には準のことじゃないの??地理的に扶余や高句麗となにかしらの関係があってもおかしくないと思うけどね。もちろん、高句麗に始祖伝説がなかったという意味ではなくて、影響を受けたんじゃないかという意味だよ。高句麗ではいつ頃から漢字を使っていたかってのも問題だけどなあ。だって「東明」って「漢風」でしょ??高句麗語で何と読むのかしらね。「朝鮮」という文字のパクリみたいなカンジもするしな。

呉の寿夢の伝説を持っている人々が、朝鮮半島にも日本側にもいたってことだよ。

満潘汗って…

『三国志』の馬韓伝の中に、燕と朝鮮の争いが書いてある。
「箕子の子孫」の朝鮮侯を燕が攻めて、「満潘汗」を国境にしたのだそうだ。
これが実際のところどこかと言うと、鴨緑江の南の、平安北道あたりらしい。
この満潘汗ってのはいったい、地名なのか??要するに後の楽浪郡だ。
川の名前ではないようなので、地名としか思えないけれど、これって「馬韓」と似てるなあと思ったんだよ。中国風に読むと「マンパンハン」かな。馬韓は「マアハン」かな。
ヘンだよね。ここで言ってる「朝鮮侯の朝鮮」ってのはいったいどこなのかわからない。
燕は長城を造っているから、遼東半島が燕だってのは理解できるんだけどね。
朝鮮っていうのは「湿水・洌水・汕水」という三つの川があって、それが「洌水」一つになる地だ。
ここで「鴨緑江」を調べてみると、

鴨緑江(おうりょくこう)は、中華人民共和国(中国)東北部と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との国境となっている川である。白頭山(中国名:長白山)に源を発し黄海に注ぐ。水の色が鴨の頭の色に似ていると言われたことからこの名前がある。北京語ではYālù Jiāng(ヤールージャン)、朝鮮語では압록강(アムノックカン)と発音する。
(Wikipedia)

とある。朝鮮語では「江」のことを「カン」と発音するわけだ。
ということは、「満潘汗」ってのは、川の名前かもしれないワケだよ。
つまりさ、満潘汗=清川江(私が持っている地図ではチョーチョン川ってあるけどそうなのかな)。
うーん、でも、朝鮮=満潘汗ってことではないんだよな。燕に攻められてそうなったんだから、もともとの「朝鮮」の地ってのはもっと西だったハズだ。
本当の朝鮮の地ってのは、鴨緑江のことじゃないのかなあ。
戦国時代の燕の長城ってのは、遼東半島全部をカバーしてないもんなあ。
つーか、朝鮮侯は「侯」なんだからさ、「公」よか下なワケでしょ??
ちなみに「爵位」のことを調べてみると、

秦以前の爵位
儒教の経典の主張するところによると夏王朝には公・侯・伯・子・男の五等があり、それが殷代には公・侯・伯の三等となり周代には再び五等となったとされる。
しかし甲骨文、金文等の同時代資料を用いた歴史学の実証的な研究によりこれらの時代に実在した都市国家支配層や共同体の成員には爵位の原型とされる称号はあったものの五等爵のようにきれいに序列化され整理されたものではなかったことが明らかになっている。たとえば西周においては都市国家の首長が侯であり、特別に格付けされた侯を公と呼んだ。都市国家に従属する小都市や村の長が伯や叔で、こうした共同体の一般成員を男や子と呼んだ。さらに、周の勢力圏から外れる国々の首長を貶めて子と呼んだことが明らかになっている。
(Wikipedia)

なのだそうだよ。じゃあ、箕子はなんなの??と思える。「貶め」られて「子」なのか????孔子の「子」は尊称みたいなものだけど、箕子は違うのかもしれないね。
ん、すると「汗人」ってのは「川の人」という意味なのかもね。倭人のことだと言われているね。まあ、「汗」を「カン」と読んだらの話だけど。ハンだからなー。
そう考えると日本語とも近いと思うんだよ。現代の日本語と韓語は同祖だろうけども、その古い言い方では、「川」は「カハ」「カア」だったとすると、「汗」という漢字をあてたってのも妥当かな。漢江(ハン川)かなあ???
その音に単純に「韓」という文字をあてたんだと仮定すると、馬韓の場合は、「馬川」みたいな川があったことになるね。「馬」は「マア」かな。釜山の近くに「馬山(マサン)」という山はあるなあ。
うーん、今さらだけど、なんで馬韓は「馬」なんだろうなあ…。牛馬には乗らないのになあ…。
なんで日本語では「汗」を「かん」と読むんだろうなあ…。
まあ、いいか。

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