| 日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
| 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
| 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
| 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
| 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
前記事で瓊瓊杵尊は壱岐から来たんだと言った。詳細は前記事を見てね。
倭人伝では対馬と壱岐にはヒコがいる。「日子」がいるべき土地だったということだよ。
そして、対馬には豊玉伝説が色濃くのこっているでしょ??和多都美神社は実は阿曇の磯良を祀っているんだとも言うね。私はこれこそがエビス信仰の原形だと思うんだよな。磯良が先にあるんじゃなくて、純粋なエビス信仰が先にあるって意味だけど。海底から拾ってくる岩にはフジツボとか牡蠣とかいろんなもんが付着してるでしょ。海底といってもそれほど深い海底じゃないんだよ。磯だな。
そういうもの(つまり海底にいる海神)を信仰している人々がいたってことは、はっきりしてるけれど、その人たちの根拠地がどこだと確定はできないんだよ。なぜなら彼らは移動しているからだな。季節によって漁をする場所は変わる。季節によってよりつく魚が違うからだな。そりゃ現代だって同じでしょ??
そしてさ、豊玉姫と山彦のエピソードだ。瓊瓊杵尊は対馬で生まれて、その後壱岐に移されたとしてもおかしくないじゃない??豊玉姫は自分は育てられないと言って海神の国に帰るじゃない??それを逆に考えると、豊玉姫の元から子供はは取り上げられた(人質として)と考えるとおもしろいでしょ??まあ、この場合はウガヤくんだけどね。ウガヤくんがオシホミミでもおもしろいなあ。「ミミ」がついてるしなあ。
対馬の高御魂神社は、現在は多久頭魂神社にあるけれども多久頭魂神社には「卒土(そっと)」があるのは有名だね。天道茂(てんどうしげ)とも言うみたい。要するに禁足地。
高御魂は高皇産霊と同じだし、これは「タカ」の「みたま」でしょ??つまり、「タカ」と言われる部族なり氏族なりがいたんだよ。
そして、対馬と壱岐は卜部でしょ??卜部と言えば、中臣を思い出すでしょ??中臣烏賊津連のポジションは高木神と似てるじゃない??
なんで高木かというと、高い木を建てたからじゃないの??素朴に。あるいは、その建てた高い柱にやどる神様が「高木に宿る神」という意味で高木神になったんじゃないのかしらね。ホラ、平原遺跡を思い出すね。だからね、対馬、壱岐、伊都国は繋がりがある。私は支配者は同族だと思うけどね。イカツノムラジ=雷大臣とは言えないけれど、ホラ、どちらも雷神系でしょ??
高木神は雷神なんだよ。表面的には。天照大神とセットの高木神の立場ではそうなる。
そして、お諏訪さんの御柱も興味深いね。宗像と建御名方命が同じなら納得いくじゃない??
そして、素戔嗚尊が持っていたのは「天叢雲剣(草薙剣)」だな。ホラ、素戔嗚尊も実は雷神であるからでしょ??雷が呼ぶのは雲であり、雨だな。それは人間に必須なものであり、農業も土と水からでしょ。そしてさ、豆酘、高御魂と言ったら穀霊信仰だよ。
豊姫(高良大社等)とか淀姫(與止日女神社等)とかも同じだね。川を遡るのは海から来る神様だ。まあ、有明海の場合は「アオ」で真水だな。けれども、川を遡るということは海から来る神様であり、元は海神なんだよな。鮎だって海から来るでしょ??
月読=高木神だったとしても、月読は壱岐の神様でしょ??ホラ、合ってるじゃない??
私は高皇産霊ってのは「タケ(嶽)の神」なんだと思うけどね。そのタケの神の依代として高い柱を建てた。だから「高木神」と呼ばれるようになったんじゃないのかな。複雑なんだけど、日神が「タケ(嶽)」に降臨して雷神に変化する(落雷)んじゃないのかな。それによって雨が降り、流れが生まれ、山から川が流れ、田畑を潤す。
大国主は宗像の女神の一人をヨメに迎えるじゃない??名前はいろいろ出てくるけど、市寸島比売だとも書かれるでしょ??この市寸島比売=三穂津姫だとどうですかね。「三穂」は「水脈(みお)」ともとれるよ。市寸島比売=壱岐のヒメであり、高木神の娘であったなら??繋がってくるでしょ??ミオツヒメつまり、高木神の娘がウガヤくんの母親の豊玉姫。あるいは、姉の豊玉姫は対馬にいて、妹の玉依姫は壱岐にいたとかね。こういうのも面白いね。
まあ、こういう風に考えていくと、やっぱし高木神ってのは、狗奴国と伊都国のミックスのようにも思えてくるね。
だいたいさ、多久頭魂ってのがあって、佐賀には多久市もあるじゃない??そしてさ、武内宿禰のとーさんは武雄でしょ??その南には「高来」があるんだからね。確か福岡の方にも高木瀬ってのがあるんでしょ??
興台産霊神ってのがいるけれど、普通「コゴトムスビ」とか言うね。やっぱり「好古都国」の長だろうと思うけどね。この人が天児屋根命の父親だとか言うね。つまり、卜部の祖(つーかナカトミ?)でもあるワケでしょ??おおざっぱに言うと。けれども、好古都国は対馬でも壱岐でもない。倭人伝では「旁国」なんだから、伊都国でもない。いったいどこなんだろうねえ。うふふふ。私は佐世保だとしているけどね。宮崎康平先生は八代だとされている。八代もアヤシイね。なにせヒノクニだからな。だけど私は佐世保以外で考えると、宇土半島周辺の島嶼だと思うよ。つーか宇土半島自体が島だった可能性もあるけど。佐世保以外ではあそこしかないだろうな。
「好古都国」ってのは現代風に書くと「心都国」だと思うんだよ。「心」ってのは、「ゴロゴロ」とか「コロコロ」と同じ。「ココ」だな。石とか岩がゴロゴロしているという意味だよ。何故そう解釈するかというと、佐世保に「心野(ここんの)町」という地名があるからです。あ、だから佐世保が好古都国だと言ってるワケではないです。大村湾が別名「コトノウミ」だからです。あ、そういえば、大物主のヨメさんで高皇産霊の娘の名前って「田心」だったな。別名がタギリヒメだから、たぎるで、荒波を現すとかなんとかっていうけど、他のヒメは島なのになんでタギリヒメだけ違うのかしらね。
うーん、素戔嗚尊と高木神がさ、狗奴国系統なのか伊都国系統なのかどっちかなのかってのがキモのような気がするな。私は、素戔嗚尊が伊都国系で高木神は狗奴国系統だと考えてきたけれど(あ、卑弥呼の後の時代なので卑弥呼は関係ないです)、なんかもっと複雑なような気がしてきたな。
私は、狗奴国は免田式土器の分布がないかあるいは少なく、北部九州でもない地のハズだと考えてるんですよ。なんでかと言うと免田式土器って船に乗せるような土器じゃないと思うからです(繊細で華奢なイメージがある)。あれの伝播ルートは主に陸路だと思う。免田式土器を作り出した人たちこそ、後に熊襲と言われた人々でしょ。そう考えると、島原湾を挟んだ地しかないでしょ??
ううむ、それにしてもウガヤくん=オシホミミってのも新たな展開でおもしろいなあ。
私は素朴に邪馬台国と大和政権は関係があると思っている。もちろん、卑弥呼の血統が天皇の祖先だという意味じゃない。卑弥呼は正直どうでもいい。天照大神のイメージモデルが、卑弥呼あるいは台与だったとするのはいいとしても、実際に天皇の祖であるのは、高皇産霊だろう。
高皇産霊と素戔嗚尊の血統が天皇の祖であると思う。どの血統が重視されたのかということだよ。重視されたのは、彼らだけどもまず九州を統一するにあたって必須だったのが、南九州の勢力の血だろうと思うんだな。
「筑紫平野と太宰府を挟んだ博多湾岸の地」と、「玄界灘沿岸から八代海にかけての地」、そして南九州。この三つだな。豊後はどちらかというと伊予とセットだと考えていいんじゃなかろうか(正直まだよくわからない、時代によって変化するだろうから)。南九州と言っても広い。私はまずは鹿児島の薩摩川内市あたりから始まり、宮崎側の西都原方面へ勢力が伸びたんじゃないかと考えている。その過程で発生するのがいわゆる熊襲と言われる人々との諍いだな。私は熊襲の「くま」は奥まった地を意味し、「そ」はまだわからないけれど、今のところは、「嶮岨」の「ソ」であり、内陸部の山がちな地に住む人々の呼称ではないかと思っている。内陸部だから、情報の伝達が遅れる、ワケのわからない連中から「あ、統一しちゃったからね」と言われても納得できるワケない。
天孫降臨という言葉がある。
まあ、瓊瓊杵尊がお空の上から降りて来たなんてことを本気で信じている人はいないだろうけど、私は瓊瓊杵尊は実在したと思ってるんだよ。磐余彦も同じだ。名前がそうだったとは限らないけれど、少なくともモデルになった人はいたと。
けれども、よくわからないのは、瓊瓊杵尊の「降臨」のルートなんだよ。
そのルートの途中に猿田彦のエピソードが入ってるからなおさらよくわからなくなっているね。
そもそも瓊瓊杵尊はもともとどこにいたのか?
謎ですな。
天孫降臨の地である「筑紫の日向の高千穂」ってのがあるけれど、イメージ的には南九州の高千穂は合ってるようなカンジはするね。けれども、前述のように瓊瓊杵尊が宇宙人のように空から降りて来たワケじゃない。南九州に来たんだとするのなら、海からでしょ??南九州の「高千穂」に「降臨」したのなら、海から上陸した一団が、信仰と共にやってきたとするのが自然だ。
ちょっと複雑なんだけど、結論から言うと、中九州に降臨したのが瓊瓊杵尊で、南九州に降臨したのが磐余彦だと考えてるんだよ。「降臨」という言葉を使うとそうなるんだけども、瓊瓊杵尊も磐余彦もムコ入りだよ。同族の後見人を大勢ひきつれてね。
じゃあ、瓊瓊杵尊はどこに「降臨」したのか。
よく言われているのが、福岡県の「日向(ひなた)」峠だ。けれども、これも南九州と同じで、実際的に考えるとそんなことはあり得ない。峠にいきなり出現するなんてことはない。どこでもドアなんてものはないんだから、筑紫に来るにしても船だよ。船に乗って糸島に来たってのは妥当だね。大遺跡地帯でもあるけれど、墓に人は住まない。けれども、ここが聖地だったことはわかる。
「筑紫の日向」ってのは、伊弉諾が禊をする場所でもあるね。「筑紫の日向の橘の小戸」だ。だから、山の中ではないんだよ。
はっきし言って私は「日向(ひむか)」ってのは「ひむかし」であり、「東」のことだと思うんだな。ヒムカという音は東であり、ヒナタという音は単純に日当りがいいってことだよ。ヒナタという地名はどこにでもあるでしょ。
○日向平(ヒナタビラ)
南向きで日がよく当たる所。平はゆるやかな傾斜地。小姓小路の南側。各地の日向地名の状況から肥料にする草刈り場地名のように思える。
『大村の地名の成り立ち』1200の字地図(福田正三郎 著)
福岡の「筑紫の日向(ひなた)」の場合、よく高祖山のことが出てくるね。私は、この高祖山ってのは、全国に多くあるだろう「鷹巣山」と全く同じだと思うよ。名称としてはね。鷹は天の使いでしょ??「高」い空を飛ぶから「タカ」なんだよ。
私は「ス」という言葉は、もともと人間が洞窟なんかに住んでいた時代の名残りだと思うんだよ。洞窟ってのは穴でしょ??茶碗むしの穴も「ス」と言うね。だからそこから派生して、住居のことを「住まい」とか「住む」とか言うんだな。「鳥の巣」が先じゃなくて、人間が先。だからね、高祖山は直接的には関係ない(聖なる山じゃないという意味ではないです)。
そもそも、「筑紫の日向」の「筑紫」の意味すらわかってないんじゃないかしらね。「ちくし」なのか「つくし」なのかも定かじゃないね(私はちくしの方が鉏だけどね)。垂仁天皇の子に「磐撞別命」ってのがいるでしょ??「石衝別王」とも書くね。「筑紫」はこの「石衝」の逆なんだと思うんだな。「石衝」「衝石」が「筑紫」だよ。興味深いことにこの「石衝別王」には妹の「石衝毘売」が仲哀さんのかーさんだな。仲哀さんと言ったら、筑紫とは関連が深いでしょ??
一番最初に「筑紫」と呼ばれた地はどこなのかってのもわからないじゃない??
私は今のところ、「石を積む」という意味で「筑紫」を理解している。エビス信仰にある石を円錐状に積むヤツだな。鹿児島や島原や五島には昔あったそうだよ(これは私の知る範囲なので他にも多分やってたところはあるだろう)。海の中から石を拾ってきて積み上げるというのが。対馬では今でもやってるでしょ??海岸の石を使うらしいけれども。石棺の中に真砂をしいたりするのも同じ意味だろうね。そして、石を積み上げるという「板石積石棺墓」ってのもあるでしょ??だからね、意味的には「石を積む」という意味だろうと。
そういう意味で考えると最初に「筑紫」と呼ばれたのは、どこか。縄文晩期に石を積んだ墓を造ってたのは??ドルメンがあるのはどこですかね。糸島だな。そう考えると、橘の小戸は??糸島水道かなあとも思えてくるね。立石崎という地があるみたいだけど、「橘」を「立つ鼻(岬)」と理解すると合ってるようなカンジもする。
ここで瓊瓊杵尊の降臨ルートを考えてみましょう。
『古事記』によると、まずニニギが生まれる前に、ウケイがある。
天照大神と須佐之男命のややこしいウケイによって、「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命」というやたらと長ったらしい名前の人が生まれる。ここでも問題があるね。モノから人は生まれない、当たり前だけど。だから、この互いの持物を交換するということ自体に重要な意味があるんじゃないかと思う。天照大神の持物である「八尺の勾玉の五百箇御統の珠」は須佐之男命に渡り、須佐之男命の持物である「十拳劔」は天照大神に渡る。
その結果、「宗像の三女神」は須佐之男命のものに、「五柱の男神」は天照大神のものになる。つまり、もとは逆だったということだよ。人質みたいなものだな。
「五柱の男神」の内の一人の忍穂耳がオウになれなかったのはそういう理由からだな。
その後、須佐之男命の冒険談が始まるけれど、物語的には出雲の地が中心だね。けれども、これって、糸島あたりが舞台でもそれほど違和感はないんじゃないのかな。そもそも、この「大蛇退治」のエピソードは、須佐之男命が高天原を追い出される前でも全く違和感はないと思う。十拳劔を持ってるしね。
まあ、私はもともと出雲大社のあるあたりは糸島のコピーだと考えてるからね。そうそう、この時でてくる「櫛名田比賣」だけどね。「奇稲田姫」とも書くね。私はこの「クシナダ、クシイナダ」ってのは神様に備える酒を作るための田んぼだと思う。『古事記』だったか忘れたけど「酒」に「くし」とルビをふってあるのを見たことがある。そういえば、酒は発酵して造られる。要するに「臭い」ことを「くし」と言ったんじゃなかろうかと思うんだよ。
んで、このイナダヒメとの間にできた子の「八島士奴美神」が「木花知流比賣」をヨメにするところはポイントだ。
この後、大国主とか天若日子のことが続くけれど、ここはちょっとおいておきましょう。
めでたく「葦原中国」が平定されて、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命が「降臨」しようとしたけれど、途中で子が生まれた。その子どもが「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命」とううんざりするほど長い名前の人なワケ。ここで思い出してもらいたいのは、「百済王(くだらのこにきし)」だ。これは「国邇岐志」と同じだね。つまりさ、「ニキシ」が、オウってことだろう。「天邇岐志」は「天のオウ」って意味だろうな。「ニキ」ってのは、倭人伝でも出てくるから、言葉自体は古いんだろう。でも最後の「シ」はわからないけど。
この瓊瓊杵尊のかーさんは、高皇産霊(高木神)の娘の子でもある。いつのまにか高皇産霊の名前が変ってるのもポイントだね。高皇産霊っていつ子供つくったんだと誰もが思うだろう。果して高木神は男神なのか??天照大神の場合は女神であることは結構強調されている。だから、高木神は男神であろうと思える。要するに、高木神は瓊瓊杵尊にとっては外戚ってことだな。
かーさんの「萬幡豊秋津師比売命」「栲幡千千姫命」「天萬栲幡媛命」などという名前のヒメはいったいどこにいたのか??織物に関係があるという説もあるね。「萬幡」と「八幡」は似てるね。けれども「豊秋津師」はどう解釈するんだろうね。また美称のひとことで片づけるんだろうか。これは「津があいている島」だと思うんだよ。豊は「大」だな。あるいは「シマ」=テリトリーという意味でもいいけどね。筑紫で言えば、博多湾ってことになるね。
さて、天下ることになった瓊瓊杵尊だけど、その途中猿田彦に出会う。けれども、この猿田彦のエピソードは瓊瓊杵尊にとってはとくに意味がない。ので、これもちょっと省略しておく。
瓊瓊杵尊は「天の石位(いわくら)」を離れ、「天の八重たな雲を押し分け」、「稜威の道別きて」「天の浮橋」に「うきじまり」、「そり立たして」「筑紫の日向の高千穂のくじふる嶺」に天降る。
この「天」を「海」におきかえてみるとおもしろいんだよ。「海のいわくら」は島でいいし、「海の八重たな雲」は波、「稜威の道」は海路、途中荒れる時もあるだろう。「海の浮橋」も島だな。
そういうルートを経て、前記の「天孫降臨の地」糸島についたとしよう。糸島なら「韓国(からくに)」に向いているからその部分はクリアできる。問題は、「笠沙の御前」の部分だ。島原の加津佐は「笠佐」と書くときもある。つまりさ「笠沙」ってのは「勝沙」でもいいわけ。「徒(かち)」のサ、潮が引くと歩いて渡れるってことだな。ホラ、糸島でいいじゃない??
そういうわけで、瓊瓊杵尊は、糸島に降臨つーか、着いたんだな。
いったいどこから??「天の比登都柱」の壱岐しかないじゃん。天を支える柱なら天の御中でもある。でもまあ、ひとつばしらというイメージは「一支国」からの連想だろうけどね。
んで、途中の「天の浮橋」の「うきじまり」ってのは、私は宇久島の宇久平(港)だと確定してるんだよ、わるいけど。
とすると、ルートが合わないでしょ。
だからね、壱岐→糸島→宇久→?→薩摩川内市だと私は考えている。天孫降臨の地は糸島でもあるけれど、糸島と壱岐は同じ勢力地であり、実質的な「天孫降臨」の地は薩摩だな。「?」の部分は、宇久から薩摩まで途中でどこを通るかでかわるからな。大村湾を通った可能性は高いけどね。そもそも宇久平ってのは、宇久と田平(たびら)を結ぶ港だったから、宇久平なんじゃないのかなと私は思うんだよ。対馬の比田勝港も、「ヒタ」と「カツ」を結ぶ港だったんじゃないのかな。
ちなみに、大村の「三浦」は、
三浦地区
郷村記に「御(み)は海(み)で浦の尊称。海から神がこの地に渡来上陸した聖地」とされ、「後年御を三に略記された。また海浦・見浦・三浦・美浦・神浦などの表記がある」と記されている。神はここでは渡来人のことであろう。
「津田川内浦・日泊浦・溝陸浦の三つの浦があるから三浦村なり」などの記述が郷村記にある。郷村記は江戸時代に大村藩事業として作成された記録。
三浦は津田河内村・日泊村・溝陸村の三村を併せた言い方で、今村は別であったが1801年に今村を入れて三浦地区になっている。今村は後からの渡来であったために別扱いされたのであろう。
『大村の地名の成り立ち』1200の字地図(福田正三郎 著)
なのだそうだ。渡来人ってのは私は賛同できないけれど。
天孫降臨というよりも瓊瓊杵尊のエピソードと、大国主のエピソードは続けるべきじゃないと思う。けれども、大己貴=大国主ということになってるから、あそこに入れざるを得なかったようなイメージを受けるよ。猿田彦も同じだな。私的には猿田彦こそ渡来人であり、帯方郡人の役人だろうと考えているけれども、話としては独立してるでしょ??大国主って時代が違うじゃない??単純に。でも、大己貴の方は高皇産霊の娘をヨメにするエピソードがあるね。つーか、無理矢理押し付けられたってカンジだけど。でも、高皇産霊の娘と結婚したのは??忍穂耳なんだよね。同一人物だろうね。つまりさ、大己貴=須佐之男命=忍穂耳なワケ。そう考えると、オシホミミがオウになれなかったのも、瓊瓊杵尊がヒツギノミコ(一応そういうことになっている)なのも納得できるでしょ??
いろいろ書いたけれど、時代的には台与の時代かその後の時代だな。4世紀。だからね、狗奴国がどうなってんのかはわからないんだよ。私は「高木神」ってのは狗奴国系統の人かもしれないとも考えているんだな。あるいは伊都国と狗奴国の両方の血を引いているかだ。なんでかというと、狗奴国は元祖「木の国」だと確定しているからです。でもまあ、あの有名な平原遺跡の大木をたてたと思われる遺跡ってのがあるでしょ??あれを考えるとね。高木神も須佐之男命も同じ血統だと考えても不思議はないな。ちょっとうろ覚えだけど、あの大木の影が墓の主の股間にくるとか??つまり神のヨメってワケだよ。ということは??この信仰の人の日神は男神なワケだな。あるいは、日神というよりも雷神を象徴しているとも思えるね。日神が地上に降りるとき雷神に変わるワケ。その通り道が大木だったり「タケ(岳、嶽、高)」だったりするワケ。だから、山の上の方に神社があったりするんだな。神様が降り立つ場所だから。
そうそう、前記事で書いた日本武尊のヨメさんの「布多遅比賣(近つ淡海の安国造の祖の意富多牟和気の娘)」だけどね。この「意富多牟和気」ってのは「オオタ別」じゃないかと思うんだよ。オオタタネコとかの「オホタ」だな。これは「オホ」の「タ(土地)」という意味なんじゃないのかなあ。大己貴とか多氏の「オホ」も同じだよ。まあ、意味はわからないけどね。この「大」と「忍穂耳」の「忍」がどう違うのかってのもわからないなあ。どうして「忍」を「オシ」と読むんだろうなあ。「押」はわかるけどなあ。
そうそう、オオタタネコの解釈だけど、「オホタ」の「タネ」の子だとも解釈できるなあと思った。つまり、父方が「オホタ」だという意味で。
関係ないけど、熊本の菊池のトンカラリンって、まさに黄泉比良坂だよね。
弥生時代の終末期、古墳時代の初め頃に整備されていたかってのは疑問だけれど、人々の畏れの対象にはなり得るよな。
うんうん、私はイザナギイザナミは実在してもしなくてもどっちでもいいんだけれど、女が阿蘇山、男が雲仙岳だと確信してるんだよ。なぜかと言うと、阿蘇は「ソ(穴)」だからだ。それに対応するのはすぐ側にある雲仙しかないし、四面宮があるからだな。それだとトンカラリンの位置は絶妙だなと思う。台与が女王になったときの女王国は阿蘇の白川流域にあったと考えてるしね。ぴったりだ。
『日本書紀』でのヨメは、
宮簀媛
両道入姫皇女(ふたじのいりびめのひめみこ・垂仁の娘)
稲依別王(いなよりわけのみこ・犬上君、武部君の祖)
足仲彦天皇(仲哀天皇)
布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと)
稚武王(わかたけのみこ・近江建部君の祖)
吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ・吉備武彦の娘)
武卵王(たけかいごのみこ・讃岐綾君の祖)
十城別王(とおきわけのみこ・伊予別君の祖)
弟橘媛(おとたちばなひめ。穂積氏忍山宿禰の娘)
稚武彦王(わかたけひこのみこ)
『古事記』では、
美夜受比賣(尾張国造の祖)
布多遅能伊理日売命(垂仁の娘)
帯中津日子命
弟橘比賣命(穂積氏忍山宿禰の娘)
若建王
布多遅比賣(近つ淡海の安国造の祖の意富多牟和気の娘)
稲依別王
大吉備建比賣(吉備臣建日子の妹)
建貝児王
玖玖麻毛理比賣(山代)
足鏡別王
一妻
息長田別王
となっている。
イメージとしては、近江と吉備というカンジがするね。尾張と穂積にしても元は同族だからなんとなく近い。
でも、一番の謎なのは宮簀媛だ。この人のとーさんは乎止与命という人で、火明命の子孫ということになっている。つまり、ニギハヤヒの系統だってワケだよ。ニギハヤヒからどう繋がるのかってのは知らないけれど。
「尾張国造の祖の宮簀媛」に子がいないのはどうしてだろうね。単に生理だったから??その日しかヤルタイミングがなかったのかしら??乎止与命がニギハヤヒからどう繋がるのかよくわからないことと似てるね。この「おとよ」ってのがどういう意味なのかってのも気になるけどね。
「安国造の祖の意富多牟和気」の「意富多牟和気」ってどういう意味でしょうね。「大玉」なら「太玉」と同じってことになるけどね。これもまた漠然とだけども、忌部つながりで四国のイメージがある。「意富多牟」については、「誉田」であるという説もあるみたい。
ところで、弟橘の息子の若建王だけど、私は「若日子建吉備津日子命」を思い出すんだよな。にーさんが吉備津彦で「四道将軍」とやらの一人だった人だよ。吉備の児島と言ったら??「建日方別」だ。
いったいヤマトタケル氏の正妻は誰だったのかしらね。一応仲哀さんがいるから両道入姫皇女かなという気もするけどね。
「ワカタケ」さんが二人いる。まあ、ヤマトタケルの息子だから若いタケさんだという意味であるとしてもいいんだけど、有名人の息子なのになんで名前があっさりしてるんだろうね。「フタジ」ってのは、二つの道という意味でしょ??どこかの分岐点なんでしょうかね。
小値賀に残る鴨一速王伝説はどうなるんでしょうね。鴨別一速王とも言うね。「針間鴨国」ってのがあるね。針間と言ったら?「ヤマトタケル」のかーさんの播磨稲日大郎姫を思い出すけどね。
賀古の郡
〔天皇は〕四方を望み見られて勅して「この土(くに)は丘と原・野と非常に広大で、この丘(日岡)を見ると鹿児(かこ・鹿)のようだ」と仰せられた。だから名づけて賀古郡という。狩をなさると、一匹の鹿がきてこの丘に走り登って鳴いた。その声が比々といった。だから日岡という。(おいでになる神は大御津歯命のみ子伊波都比古命である。)
この岡に比礼墓がある。褶(ひれ)墓と名づけたわけは、昔、大帯日子命(景行天皇)が印南の別嬢を妻問いなされた時、御腰に帯びられた八咫の剣の上結(うわゆい)〔の帯〕には八咫の勾玉、下結には麻布都(まふつ)の鏡を懸けて、賀毛の郡山直らの始祖息長命(またの名は伊志治(いしぢ))を仲人として妻問いに下っておいでになったとき、摂津の国の高瀬の渡し場まできて、この河を渡ろうと思って渡し守に頼んだ。すると、紀伊の国生まれの渡し守の小玉は、「私は天皇のめしつかいなどではないぞ」と申しあげた。そのとき天皇は「朕公(アギミ・親愛な貴君よ)そうではあろうがぜひ渡してくれ」と仰せられた。(云々)含芸(かむき)の里
もとの名は瓶落である。
土は中の上である。
瓶落(かめおち)とよぶわけは、難波の高津の御宮の天皇(仁徳天皇)の御世に私部(きさきべ)の弓取りらの遠祖他田熊千(をさだのくまち)が、瓶に入れた酒を馬の尻につけて、家を作るための土地を求めて旅をしていると、その瓶がこの村に落ちた。だから瓶落という。
また酒山がある。大帯日子天皇の御世に、酒の泉が湧き出た。だから酒山という。百姓が飲んだらたちまち酔って、お互いに入り乱れて闘いあった。それで埋め塞がせた。その後、庚午(かのえうま)の年(天智天皇〔六九〇年〕)に人があってそれを掘りだした。今でもなお酒の気がある。
郡の南の海中に小島がある。名を南毗都麻という。志賀の高穴穂の宮に天の下をお治めになった天皇(成務天皇)の御世に、丸部(わにべ)臣らの始祖比古汝茅(ひこなむち)を遣わして国の境界を定めさせた。その時、吉備比古・吉備比売の二人が出てきてお迎えした。そこで比古汝茅が吉備比売をめとって生んだ児が印南別嬢である。この女性の容姿の端正なことはその世にすぐれていた。その時大帯日子天皇(景行天皇)は、この女性をめとりたいと思われ、ここに下っておいでになった。別嬢はこれを聞いてすなわち前記の島に逃れてここに隠(な)びていた。だから南毗都麻という。
(『風土記』 吉野 裕 訳)
針間鴨国造 ( 播磨 )はりまのかものくにのみやつこ
針間鴨国造とは針間鴨国(現・兵庫県加東市・小野市・加西市周辺)を支配した国造とされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると成務天皇(13代)の時代、上毛野(かみつけぬ)氏と同祖の御穂別命(みほわけのみこと)の子である市入別命(いちいりわけのみこと)を国造に定めたことに始まるとされる。針間国造とは隣接して相関関係にあることから御穂別命は御諸別命、市入別命は伊許自別命の誤記と考えられており、御諸別命は毛野氏の祖と言われている。御諸別命については豊城入彦命(豊城入日子命)の曽孫とする説や三輪君一族との濃厚な関係説、また後に両毛(上野・下野)に至り、東国第一の大族となった説等もある。御諸別命の出自は諸説あるにしろ、大和朝廷の近臣にあり、最初に大規模な東国統治に出向いた人物と見られている。
(サイト「日本辞典」より)
ヤマトタケルが伊勢のおばさんのとこにグチを言いに行ったときに一緒についていった「吉備臣等の祖、御鉏友耳建日子」ってのも気になるね。だって「大日本彦耜友尊(おおやまとひこすきとものみこと)」という人もいたからだよ。この懿徳天皇のかーさんは「鴨王」なんだよね。
ヤマトタケルの子は『日本書紀』では七人、『古事記』では六人ってことになる(オトタチバナに九人子がいたってのもあるけどいくらなんでもこれはないだろう、そもそも、子持ちが生け贄になるのかなあという疑問があるけど)。『播磨国風土記』に「息長命」ってのが出てくるのもアヤシイ。「いしぢ」というらしい。
ここに、志志伎神社の七郎がからんでくるんだよな。なんかアヤシイ。「しじ」と「しぢ」がらみもあるしな。「おじさん」の「ぢ」かもしれないけれどね。「丸部(わにべ)臣らの始祖比古汝茅(ひこなむち)」も大己貴を思い出させる。
私は弟橘には子はないと思うんだよな。私はなんとなくこの人はヤマトタケルの異母妹かなんかじゃないのかって思う。あるいは、女じゃないかだな。またあるいは宮簀媛=弟橘ってのもおもしろいね。ヤマトタケルは山の中をウロウロした後、宮簀媛のとこには寄らなかったっていうエピソードもあるじゃない??
もう死んでた(入水した)からって考えるとおもしろいと思う。
大彦=ヤマトタケルの一部ってのも捨て難いね。どっちも「おばさん」に会う。大彦の息子の「建沼河別命」も東海の方へ行くでしょ??
小碓が女装して熊襲退治をするって話も、そのまま信じてる人はいないとは思うけれど、なんであのエピソードは男色のかほりがぷんぷんするんだろうね。オカシイでしょ??小碓が敵を「剣を尻から貫いた」ってのはモロに男色っぽい。私は、小碓は熊襲退治をしに行ったんじゃなくて、人質だったんじゃないのかなと思うけどな。大碓がほったらかしなのも気になるでしょ??大碓と小碓のどちらもヤマトタケルの可能性もあるんじゃないの??弟橘=小碓とかね。なんらかの理由で小碓はいつも女装していたってのもおもしろいね。
大きく地域を分けると、近江、吉備、東海ってことになるね。
うーん、やっぱし吉備津彦が気になるなあ。大彦と吉備津彦は、謀叛人を討伐しているじゃない??
なんか繋がりそうで繋がらないんだよなあ…。大碓小碓兄弟=吉備津彦兄弟というイメージもあるよなあ…。
この前、鉄腕ダッシュを見てたら、海苔の養殖のところで「ヒビ」と言ってた。
調べると、海苔の養殖に使われるイカダみたいなのをヒビと言うらしい。
昔は、木や竹を使ったそうだ。
いやね、吉備の「キビ」の謎がまだとけてないのでね。
そもそも、なんで「ヒビ」と言うんだろうなあ。
開化天皇の名前がさ、「稚日本根子彦大日日」でしょ。
なんか、関係ありそうな気もするんだよな。
「稚日本根子彦大日日」は「稚日本根子彦大吉備」とかね。
吉備の児島は「建日方別」だからね。
九州以外で「日」が入ってるのは、ここだけなんじゃないかな。
「建日」が入ってるのは、熊襲国の「建日別」と肥国の「建日向日豊久士比泥別」だけど、この「建日」にどういう意味があるのかしらね。私はこの場合の「建」は「岳」「嶽」の「タケ」だと思うけどね、つまり「高」だな。
まあ、「建日向日豊久士比泥別」自体は意味不明だけどね。
何度も言うけど、有明海を「別」に入れるかどうかで、九州が「四面」なのか「五面」なのかが決まるんだよ。つまり、要になってんのは肥国なんだな。
長崎側と熊本側を一つにまとめることによって、五面は四面になるんだな。
これを追究していくと、またこんがらがってくるから今日はやめとくけども。
要するにさ、「速日別」を入れたら、五面になるワケだ。
雲仙の温泉神社の四面宮は速日別の神を祭っているという伝承があるのは今まで何度も書いたね。
そうそう、万葉集の額田王の歌に「飽田津(にぎたつ)」ってのがあるらしい。そういえば、万葉集は持っていたなあと思い出した。
巻一
額田王の歌
飽田津(にきたづ)に船乗(ふなの)りせむと月待てば
潮もかなひぬ今はこぎ出でな
(新訂新訓『万葉集』佐佐木信綱編 岩波文庫)
「伊豫の飽田津」の「石湯」の「行宮」に斉明天皇が泊まったんだそうだ。
また、伊予か…と思ったよ。なんでかというと、長崎港の別名が「瓊杵田津」だからだな。日本武尊の息子繋がりもあるんだよな。十城別王(伊予君の祖)と鴨一速王だな。
この「ニキタ」ってのは何だろうなあ。栄えているという意味なら、長崎港がこの歌になぞらえて、「ニギタツ」と呼ばれたってのはわかるんだよ。無論古代じゃなくて、開港してからの話だな。でも、神宮寺の謎もあるからなあ…。「崇岳(たかだけ、現在の金比羅山)」もあるしなあ。
じゃあ、ニキは??ニギニギシイって意味かなあ??わからんなあ。
西彼杵半島の出津(しつ)の弥生遺跡からは瀬戸内式の土器も出てるから、何かしらの繋がりはあったんだと思うんだけどなあ。
うーん、日本武尊の子については、息長田別王(おきながたわけのみこ、阿波君の祖)ってのもいるでしょ??
なんか、アヤシイよなあ…。「息長田別」ってどこなんだろうな。「別」がついているということは、そう呼ばれた地があったハズなんだよな。まあ、前記事ともちょびっとリンクするかな。神戸に長田神社ってのがあるらしい。祭神は事代主らしい。神戸かあ。うーん、四国じゃないなあ…。
うーん、伊予と「伊邪国」は似てるよなあ…。
まあ、八幡(ヤハタ)なんですが。
一般的には、宇佐神宮が全国の八幡の元だとか言われているね。
念のためにWikipediaもみてみた。
宇佐神宮(うさじんぐう)は、大分県宇佐市にある神社である。全国四万四千社と言われる八幡宮の総本宮である。式内社、旧官幣大社。正式名は宇佐神宮だが、宇佐八幡あるいは宇佐八幡宮とも通称される。同じ官幣大社の石清水八幡宮、筥崎宮、または筥崎宮に代えて、格下の鶴岡八幡宮(国幣中社)とともに日本三大八幡宮のひとつに数えられる。
(Wikipedia)
「三大」ナントカってのは、どうでもいいけどね。
イヅヤマ(伊豆山)
峰町大字木坂にある海神神社(木坂八幡宮)鎮座の山である。伊豆は神の威厳をいい、前の原を伊豆波留という。また厳原八幡宮の前原も伊豆波留という。オマエノハマ(御前ノ浜)
峰町大字木坂の浜をいい、浜辺の石を八字斑石といい古来霊石として濫りに拾うことを忌む。四、木坂(きさか)
津島紀事によれば、八幡神廟(旧号木坂八幡、現在の海神神社)は伊豆山にあり、その山の南面の山路は嶮しくて、木の根をよじて上り下りをする。よって木坂という。山の北を伊豆の里、山の南を木坂の里という。伊豆は山表、木坂は山の背である。
『對馬の地名とその由来』藤井郷石 著
対馬の西海岸、外洋に向って立つ木坂の八幡宮は、対馬国一之宮として、古い由緒を誇る神社である。明治六年(一八七三)、太政官より海神(わたつみ)神社と改められ、今日に至っているが、古来、厳原の下ノ津八幡より上位に立つ上ノ津八幡として、広く崇敬を集めてきた社である。社伝によれば、宇佐八幡宮もここからの勧請とされる。この八幡宮に伝わる行事は、延宝年間には、年間五四度の多きにわたったと記録され、長い歴史を反映して複雑さを極めている。
「対馬・木坂の祭祀と村落空間」(鈴木正崇 著)
6 海神の里に伝承された産屋習俗
『古事記』によれば、豊玉姫は出産に際し、海辺の波限に鵜の羽を葺草(茅)として産殿を造らせたが、その産殿がまた葺き合えぬうちに産気づき、「妾は本国の身形に化りて産みなむ。妾を見たひそ」と日子(山幸彦)に告げて産屋に入った。それを日子がそっと覗いて見たところ、姫は八尋の鰐になって匍匐していた。日子は驚いて逃げ出したが、そrを恥じた姫は御子を波限に置き、海坂を塞いで本国に帰ったという。
そこで御子を「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合」と名づけたというわけだが、この産に臨んで「産舎(産屋)」を造る習俗が、古い海人の居住地にあったことが知られている。それも対馬海流の沿線に多いようで、南方系海人の旧慣といわれているが、その産舎の古俗はかつて対馬にもあり、海神神社(式内明神大社和多都美御子神社)が鎮まる峰町木坂の里には、明治中期までその遺風があった。それを記録した『津島紀事』(文化六年撰)は、三根郷木坂村の頃に、当邑、産婦有れば、俄に産舎を郊に造り、其の成らざるうちに分娩すという。是れすなはち上風なり。相伝へて豊玉姫の安産に倣ふ遺風なり。
と記している。
現在、海神神社の祭神は豊玉姫と鵜葺草葺不合命であるが、本来は豊玉姫と磯良であったと考えられる。それは産舎を造った海辺の一角に磯良であったと考えられる。それは産舎を造った海辺の一角に磯良の祭祀があるからで、実(げ)に磯良は鵜葺草葺不合の異称であった。
環対馬海峡の基層文化『海人たちの足跡』 永留久恵 著
ここで思い出してもらいたいのは、「天児屋根」の孫の「天種子」がウサツヒメと結婚したってことだよ。つまり「ヤハタつながり」があるわけ。要するに「ヤハタ」ってのは、この天児屋根系統の信仰なんだと思う。もちろん、元がなんだったかってのは、よくわからないけどね。海神系だろうなあ。
天児屋根と言えば、中臣氏の祖として有名だけども、それが真実かどうかってのはおいとくにしても、対馬の木坂と言えば、何度も引用したけれども。
三七、阿連(あれ)
阿連は旧号阿江である。また阿礼というのもある。新對馬島誌によれば、八幡宮鎮座伝記に、木坂の伊豆原に岡があり、俄に老翁二人立つ。里人その名を問えば、一人は白髭の翁といい、一人は太田と答えた。その住家を問うと、阿江と答えて南を指した。阿江とは阿那辺(あなた)の義であると説いている。地名語では阿は大きい、江は入江であろう。阿連上代雷大臣の遺跡として有名である。
『對馬の地名とその由来』藤井郷石 著
これだよな。
中臣はどうでもいいとしても、天児屋根、天種子、雷大臣は同族だろう。
私はさ、伊都国も「伊豆波留」だと思うんだよな。有名な雷山ってのがあるでしょ??その山の「伊豆波留」が前原だと思うんだよ。だからね、現在伊都国だとされているところってのは「伊豆波留」という意味で「伊都」なんだと思うんだな。だかさ、ここらあたりは聖域だっただろうと思うんだよ。
そんなところに外国人を連れて来る??だからね、ここらあたりも伊都国でいいんだけども、郡使の留まるところはここじゃないと思うんだよ。だから、私は唐津というか松浦川の上流あたりが「郡使が留まる伊都国」だと思うんだよ。遺跡はそのうち出るでしょ。松浦川の周辺は遺跡の宝庫だろうからね。
これは、中臣をからめてもおもしろいんだけどね。卜部と言えば、対馬、壱岐、伊豆でしょ??私は、天児屋根とか天種子、雷大臣ってのは「卜部の祖」であり、そこから分かれたのが中臣だと思うんだよ。
福岡に臺岐神社ってのがあるね。私は、息長の「息」ってこの「臺岐」でもおかしくないと思うんだけどね。
オキナガタラシヒメは、「壱岐のナカのタラシヒメ」でもいいんじゃないの??壱岐に「ナカ」という地名があるのかどうかは知らないけど。福岡にはあるね。
何度も言いますが、私は伊都国ってのは、韓地(後の加羅地域とか島嶼部)、対馬、壱岐、西北九州の島嶼部の海人を従えていた氏族のクニだと思うんだよ。だから、オウは九州にいてもいいんだけも、実態はどこが本拠地ってワケではなかったんじゃないのかな。強いて言えば、対馬かな。
確かに「息長氏」ってのは、近江だ。だけども、私は伊都国勢力(あるいはその一部)=素戔嗚尊勢力だと考えているからね、近江でも不思議じゃないんだな。
ヤハタってのは「ヤアタ」だろうな。これは「広い」という意味にはなるんだろうけどなあ。うーん。でも、「畑」かもしれないしなあ。日田もあるしなあ。日田は「火田」からきてると思うんだよなあ。
ところで、宇佐のウサツヒメのムラの遺跡ってどこなんだろうなあ…。宇佐じゃなくて日田の方がアヤシイけどなあ。
このまえ、九州ローカルの番組で各地の奇祭が紹介されていた。
その中で、仮面をかぶった男たちが子供を追い掛け回して、拉致して麻袋に押し込むという祭をやっていた。どこだったかなあ、鹿児島だったかなあ、忘れました。
それをやると、その子供が水難事故に合わないって祭りだった。
私はそれを見てから、「无間勝間(めなしかつま)」を思い出した。
山彦がこもったカゴだな。
私はずっとこれが謎だなあと思っていた。目のつまった籠だというけれど、いくら目がつまってても溺れるだろうと。
んで、このテレビを見てハッとしたよ。
漆だ。
目のつまった籠に漆をぬったら、水を通さない。
大きい籠をつくって、漆をぬってそれを屋根代わりにしたら船が「家船(えんぶ)」になる。雨がふってもいくらからは生活できるよ。
なるほどなあ。私ってスゴイ…。
ムナカタ(表記はいろいろあるだろう)と後の呼ばれた氏族が属した勢力ってのが、お諏訪さんのタケミナカタ様ならさ、建御名方命が「戦って」「畏れて」「逃げ出した相手」の建御雷神ってのがいるけどさ、これもある意味国譲りみたいなもんだな。
ミナカタさん(ムナカタと同じであるとして)は、要するにオオクニヌシの側なワケでしょ。つまり、高天原に反発した素戔嗚尊の側ってことだよ。
ということは、ムナカタってのは、素戔嗚尊の勢力の側ってことだよ。
宗像三女神自体が、素戔嗚尊が生んだことになっているから当然といえば当然だけど。
私は事代主=饒速日=素戔嗚尊の息子としているけどさ、建御雷神も同じなんだよな。タケミカツチはニギハヤヒの双子の弟(たぶん)だよ。
じゃあ、なんで同族同士で戦うんだというだろうけど、タケミカツチは高天原側に既に組み込まれてるんだな。素戔嗚尊の勢力は、海洋民を中心として大きかったハズだ。敵にまわしたくはないでしょ??だから、息子を人質にとってたワケ。それがタケミカツチであり、ニニギノミコトなんだよ。
「天孫」は二人いるんだな。剣も「十拳剣」と「草薙剣(天叢雲剣?)」と二つあるでしょ??高天原由来の弓矢のセットも2セットある。実際にあったかどうかってのはどうでもいいんだよ。そんなのでっちあげればいくらでもつくれるからね。
剣と弓矢のAセットとBセットってのがあってさ、Aセットをもってたのが、素戔嗚尊側、Bセットをもってたのが高天原側なんだよ。それは、血筋を証明するためのものだな。高天原側と素戔嗚尊側の血統を継いでいるという証明なんじゃなかったのかな。
では、なんでまた、国譲れと言われた方がおとなしく従ったのか。そりゃ、弟の方が後継ぎであるとわかっていたからでしょ(でも、私的には瓊瓊杵尊はヒツギノミコではないんだよな、複雑だけど。これは単なるムコ。正統なのは、ニニギと南九州の血を引いている人だ)。
具体的に言うとさ、韓半島側や対馬や島嶼の倭人をたばねていた(と私が妄想している)伊都国が反発したワケだよ(あるいは伊都国の一部勢力)。高天原、つまり「女王国」に。
この場合、狗奴国がどういう動きをしたかってのはイマイチまだわからないんだけども、あるいは、狗奴国側も一枚岩ではなかったという可能性もないではないでしょ??
素戔嗚尊には、鉄のイメージがつきまとうでしょ??剣だな。「倭人は弁辰で鉄をとってる」とちゃんと書いてあるじゃない??倭人伝には。そういう人たちだよ。何度も言うけど、朝行って、鉄とって夕方帰ってくるワケじゃないんだよ。山砂鉄とり(カンナ流し?)を行う倭人が生活するムラが必ずあったハズなんだよ。それが後の多羅国でも不思議はないけどね。韓地で生活していれば、自然と帯方郡とかとの接触も多くなる。言葉のわかる人もいるだろうし、混血もするだろう。それが「弁辰」かというと、違うような気もするけどね。だって、弁辰は背が高いとあるからね。弥生晩期あたりの北部九州の墓から、背の高い人骨がわんさか出るのなら話は別だけど。
韓地の原住民ってのはおそらく、馬韓人と倭人だろうね。そこに、背の高い人たちがやってきた。それは北部九州と同じ状況だろうと私は思うよ。
まあ、馬韓人が自称何人だったのかってのは、よくわからないね。だって、その後は「百済」「新羅」「加羅」なワケでしょ??「韓」じゃないもの。
まあ、百済の被支配層が自称韓人だと言えないことはないけれど。
その後、韓地で鉄とってた倭人は、九州側に引き揚げる人もいれば、現地に残った人もいるだろう。引き揚げた人々は、鉄の知識があるワケだよ。それが素戔嗚尊の勢力の配下なら、出雲あたりで鉄の出る山を探しても不思議はない。
だから、私の中で出雲はいいとしても、丹後がわからないんだよな。そもそも、タニハっていったいどこなんだよ。最初にタニハって言われたところはどこなんだろうね。そもそもどうしてタニハなんてぼんやりした地名なんだろうか。
「亀岡市民新聞」というサイトにおもしろいことが書いてあった。
◆ 太古は赤い波の打ち寄せる湖だった
丹波の名前の由来には、次のような説がある。
太古の昔、亀岡盆地は赤土で染まった湖で、丹(に=赤色の土)の波が打ち寄せていた、されるところから『丹波(たんば)』(古くはタニワ)と呼ばれるようになった。
丹波開発の祖神として崇敬される鍬山神社(上矢田町)や請田神社(保津町)の縁起では、次のように伝えられている。『古代、亀岡盆地が泥湖だった頃、出雲大神が八神と黒柄岳に神集されて、一葉の船に乗り、一把の鍬を持って、浮田(請田)の峡を切り拓き、湖水を干拓して肥沃な農地とした。里人はこの神の徳をたたえ、また使った鍬が山積みしたことにより、鍬山神社と名付けお祀りしたのが、当社の始まりである。
和銅二年(七〇九)に社殿がはじめて建てられた』(鍬山神社の社伝より)『四面を山に囲まれたこの丹波平野は、昔は湖で、赤い泥色湖水が漂っていたのであろう。これが丹波の名の起源という。大山咋命は鋤を、大国主命は鍬を、篭持神は篭を持ってともに開拓し、湖水を山城平野に流した。これによって丹波平野ができ、切り拓かれたところが保津峡である』(請田神社の社伝より)
◆「田庭」(たにわ)から転じて丹波に、の説も
また、「丹波及丹波人」(丹波青年社発行)には、『丹波の名は、皇祖大神が水田の試作を遊ばした《田庭(たにわ)》に出ている』と記す。
『山本浮田の峡を切り拓き、山城葛野へ水を流し陸田に干拓し、大山咋命は鍬を取り、大国主命は鍬を取って、土地の住民とともに農耕に励んだ。当時、この地は田庭と呼ばれていたそうで、丹波はこの田庭より名付けられたと思われる。(中略)その後、田庭には早稲を作り、桑を植えて養蚕を営んだことにちなんで、桑の木を作った田庭を、今でも小字で「桑の木」と呼んでいる』(桑田神社の社伝より)
丹波は、古くより稲作が盛んで、今日でも亀岡は京都府随一の穀倉地帯といわれることからも、その語源のもつ意味は興味深い。
なのだそうだ。
赤い湖があったからなら、「ニハ」が語源かな。「ニ」は「丹」だろうけど、この場合の「ハ」は何だろうな。「場」かな??「ニハ」を開墾して田んぼをつくったから「タニハ」になったんだろうと思うんだよなー。
赤土があるのなら、山砂鉄があるだろう。そういう地を素戔嗚尊勢力が探した可能性ってのはあるよな。んー、でもなあ。なんか地名としては弱いなあと思うんだよな。
でもなあ…、私は素戔嗚尊が出雲の次に(本格的に)上陸した地は敦賀だと思うんだよな。コシのクニ(たぶん)。当時の琵琶湖がどういう状態だったのかっては、私は知らないけれど、後の時代の息長氏のことを考えるとやっぱり敦賀だろうと思うんだよなー。敦賀から上陸して滋賀を通って、タニハへ来たってのが妥当なんじゃないのかな。
つまりさ、日本海側から近畿に入った人たちが素戔嗚尊たちの勢力だと思うんだよなー。
うーん、高句麗とコシの関係ってのもなんかありそうだしな。高句麗は魏から討伐されるじゃない??なんかアヤシイよなあ。
南解次次雄(なんかい じじゆう、生年不詳 - 24年 は、新羅の第2代の王(在位:4年 - 24年)であり、姓は朴。二聖と称される新羅始祖赫居世居西干と閼英夫人との間の長子。王妃は雲帝夫人(または阿婁夫人)。紀元4年3月に始祖赫居世が亡くなり、王位についた。
(Wikipedia)
ホラ、これも「次次雄」は「筒男」と同じでしょ??「南解」も「ナカ」でいいし。つまり、住吉さんの「中筒男命(なかつつのおのみこと)」と同じってワケよ。
筒とか豆酘の「ツツ」だけどね、私はヘビのことだと確信したよ。もう、見たまんま、そのまんま、ヘビは筒状の生き物だから。ぬけがらも筒だ。だからさ、オリオンの三ツ星がヘビなんじゃないのかな。
「蛟竜」だな。みづち。ツチノコも「ツチ」がつくでしょ??でもオロチは違うね。オロツチじゃない。カグツチもツチだからこれもヘビだ。だからさ、オロチはヘビじゃないんだよ。オロチは「汚地」。
だからと言って、住吉の神様が韓地出身だという意味ではないです。葛城襲津彦アヤシイけどなあ…。
最近のコメント