呉 ローマ字表記
普通話
ピンイン: wú (wu2)
ウェード式: wu2
ハングル: 오, 호
文化観光部2000年式: o, ho
マッキューン=ライシャワー式: o, ho
越 ローマ字表記
普通話
ピンイン: yuè (yue4)
ウェード式: yüeh4
広東語
イェール式: yut6
ハングル: 월, 활
文化観光部2000年式: wol, hwal
マッキューン=ライシャワー式: wŏl, hwal
イェール式: wel, hwal
(Wiktionary)
前記事で呉も倭も同じじゃないのかと書いた。もちろん国が同じという意味じゃなくて、元になる人々という意味だ。でもまあ、呉越同舟ってのがあるからなあ。縄張り意識が先祖代々(つまり太古の昔)あったような気もするなあ。
だけど、越も倭と同じだと思うんだよ。
そもそも「越」の「yuè」ってのは日本語ではイェだと思うんだよ。ヤ行のエだな。つまり「江」であり、「越(yuè)」って音はそもそも、川の人、あるいは水(海)辺の人という意味なんじゃないのかな。
川とか水とかってのは、人間にとって必要不可欠のものだから、言語が分かれる前から同じ音だったと考えてもいいんじゃないかな。
呉の方は「フゥ」みたいな音かな。これは日本語で言うところの「鵜」、「浮」と同じなんじゃなかろうか。つまり船に乗る人だな。
呉と越という(国じゃなくて)部族がさ、どう違うのかってことだけどね。太伯は断髪文身したんだから、呉も越もそういう風貌だったのかなあとは思えるけども。
私はさ、三星堆遺跡が羌じゃ無いんかなあと思うんだよなー。なんとなく「巨人」(羌=巨人だとして)ってのとイメージがだぶる。羌=巨人ではなくても、三星堆遺跡の青銅器人の像とか、巨人ってカンジがするんだよなー。
そうそう、広島の呉がなぜ「くれ」なのかってのを調べてみた。
「観光情報満載!くれナビ」の掲示板で、
呉市観光振興課です。お問い合わせのありました件についてお答えします。
「呉市」の名の由来につきましては、いくつか説がございますが、主な由来説を3つご紹介します。
①その昔、「灰ヶ峰(はいがみね)」の中腹に杉や檜などが密生した森林があり、そこから伐りだした建築や舟用の板材のくれ(長さ12尺×幅6寸×厚さ4寸の板材のこと)が特産品として販売されていて、それが有名になったたため、時代とともに「くれ」となったという説。「安芸風土記」には「呉を含む芸州一円が木材の産地だった」と記載があります。
②その昔、「灰ヶ峰」をはじめとする呉一帯をつつむ連峰を「九嶺(きゅうれい)」と呼び、それがなまって「くれ」になったという説。頼山陽は昔の呉を「九嶺につつまれた漁村」と書いています。ちなみに「九嶺」とは、「日佐子山(ひさごやま)」「八咫烏山(やたがらすやま)」「石槌山(いしづちやま)」「大迫山(おおさこやま)」「傘松山(かさまつやま)」「大根山(おおねやま)」「向尾山(むこおおやま)」「灰ヶ峰」のことです。
③その昔、呉周辺に住んでいた古代朝鮮半島からの渡来人を「くれ人」と呼んでいて、それが「くれ」となったという説。(高句麗→句麗→呉)
以上が主な由来説で、この他にもいくつか説があるようですが、呉市が「呉」として地名に残された史実は、約940年前の平安時代末期の資料に見られる「安摩庄呉浦(あまのしょうくれうら)」が初めてのようです。
以上です。よろしくお願いします。
> 3世紀に中国の呉より呉の軍隊が日本に来て大和政権を創ったとの説があります。(日本書紀の謎 竹田昌あき氏 徳間書店)
> 地形的に関係が有るような気がしますが如何でしょうか。
> もし関連する情報があればお願い致します。
と、丁寧な回答が寄せられていた。
私は、この行政の対応は素晴らしいと思った。さすがは都会だ。
日本海側なら高句麗も考えられるけれども、広島だからね。私は韓半島にいた呉の末裔あるいは、呉からの移住者あるいは、呉の文化を持っている人々がやって来たんだと思う。私さは、それが伊都国が支配していた倭地の人たちじゃないかと思うんだけどね。
ホラ、私は素戔嗚尊は伊都国人じゃないかと考えているから。
やっぱり蚩尤だと思うんだよなー。
蚩尤(しゆう、Chihyu。または蚩蚘とも書く。)は、古代中国神話に登場する神であり、三皇五帝のうちの一人、炎帝神農氏の子孫とされている。兵器の発明者とされ、霧をあやつる力があったとも言われている。
獣身で銅の頭に鉄の額を持ち、また四目六臂で人の身体に牛の頭と蹄を持つとか、頭に角があるなどとされる。路史によると、羌が姓とされる。
(中略)
この時、他に蚩尤に味方したのは勇敢で戦の上手い九黎族(ミャオ族の祖先といわれる。)、巨体の夸父族だった。
(Wikipedia)
あ、そうか。九黎がミャオ族の祖なら越は違うってことかな。
夸父族が巨人なのか。んー、これも周の始祖王武王の曾祖父だとかいう古公亶父と似てるね。
やっぱ、蚩尤は蜀のイメージだなあ。三星堆遺跡。
いや、これはおいといて。
「禹のアジール」ってのを考えると、馬韓の蘇塗と対馬の卒土は同じとしか思えないね。そして対馬と壱岐には「日子」がいる。
伊都国ってのは、九州側の壱岐、対馬などの島嶼と朝鮮半島南部にあったであろう倭地の宗主国みたいなものなんじゃないのかな。
前も書いたけども、伊都国王は「伊都国」で治めてるんだよ。辰韓の王が「月支国」で治めるのと同じことなんじゃないのかな。その韓地側の倭地が後の「任那」なんだと思うけどね。うん、やっぱり素戔嗚尊は伊都国人だよ。
素戔嗚尊はいったん韓地へ行くけれど、そっちにいた一族郎党ひきつれてきたんじゃないのかな。それによって、北九州には箱式石棺が多くなるんじゃないの??
ちなみに、月支国の「月」って「ユェ」でしょ??「越」も同じ発音なんだよな。これもおもしろいね。月支国が越人でもおもしろい。
辰韓が後から来たから馬韓人に従っているってのはわかるんだけど、じゃあ、弁韓は??ってことになるんだよなー。だからさ、やっぱし閩越ってのが気になってくるんだよなー。前漢時代に滅ぼされた閩越人が、船で韓地へ逃げてきたってのもあり得る。
辰国ってのがあるでしょ??『魏略』の逸文が馬韓伝にあるじゃない??「朝鮮」の(?)右渠が東の「辰国」を利用しないことを宰相が諌めたけれど、聞き入れられなかったので、亡命したという記事が。
これもなんか意味不明だなあと私は思うんだよな。辰韓は昔の「辰国」であるってのと矛盾しませんかね。馬韓に支配されているような弱小亡命国をなんで頼るのか??だからさ、私は「辰国」と「秦から亡命した人の辰韓」ってのは別じゃないかと思うんだな。
あるいは、韓地は、自称箕子の子孫の準が亡命してきた地、あるいはそこにいた人々が「ハン」と(言う音で)呼ばれていたから「韓氏」を名乗ったから、韓と呼ばれるようになったのならまあ納得いくかな。
あ、また話がズレた。まだまとまってないんだよ。
韓半島の倭地を従えていたのは伊都国だよ。「漢委奴国王」の奴国と伊都国の関係はまだわからないけれど。
ホラ、素戔嗚尊が伊都国人であり、女王国と反発して九州を一端は出たけれども、韓地側の倭人を引き連れて、周防灘の沿岸の北九州地域を拠点にしたんだと考えれば、箱式石棺の増加とか、素戔嗚尊が牛頭天王とされるのも納得いくでしょ。蚩尤は角がある。
広島の呉は、韓地にいた九黎(ようするに三苗)族の子孫がやって来たんじゃないの??こういう風に考えると、時代は違うけれど、のっぺり弥生人がなぜに北部九州にいたのかってのも理解できるんじゃないかなあ。
伊都国は、北部九州というよりも、もう少し南の松浦地域と島嶼、そして韓半島の倭地にいた海洋民だよ。要するに、ドルメンのあった地域だよ。完璧な海洋民だな。素戔嗚尊は「海原を治めよ」と言われたんじゃなくて、もともと海原を治めていたんだよ。
新羅の建国神話だってアヤシイね。支配層が三姓あって、被支配層は六部だったっけ。馬韓人が王だったんじゃないの??なんで急にかわるのかしらね。おかしいでしょ??別に戦いがあったような雰囲気もないのに。
私は、韓地の三国の建国も帯方郡の差し金じゃないかと思うけどね。
そうそう、今給黎(いまきいれ)という名字があるでしょ??私はこれも九黎からきてると思うよ。つまり、「呉(くれ)」=「給黎」なんだよ。「今」ってのは新しいという意味だから、「本」もどこかにあるハズなんだよ。「今」と「本(もと)」は常にセットだ。
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