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沖縄は日本です。


沖縄は日本です。縄文時代から九州と交流があったことは考古学的に証明されているし、沖縄の方言も、ほんとに本物の方言はわからないけど、こうやって標準語を話されているときのイントネーションを聞くと親しみを覚える。琉球王国があったってことはもちろんわかるけれども、それでも石垣や中国風の建物とか特に違和感はない。

イントネーションを聞くと私は五島弁や野母弁を思い出す(これは私見)し、中国風の建物もなじみぶかいものです。
今、沖縄はネガティブなイメージによって(多分)、観光も打撃をうけてるだろうなあと思う。
私は以前から思ってたんだけども、首都圏の人間からみると、離島(この語彙は私はほんとはキライです)は別の世界みたいに感じるんだろうなと思う。前も書いたことあるけれど、島に人が住んでいるから領海を保っていられるんだということをわかってないのね。もちろん対馬も同じ。人が住んでるから文化や歴史が保たれ、ひいては国が守られているのね。
それでさ、関東なんかの一番大陸から遠い安全な場所で、自衛隊は違憲だとか、憲法改正反対とか平気でわめきたてたりするのね。そういうデモなんかをみると、じゃああんたが島の人たちと自衛隊員を守りなさいよといつも思う。憲法のせいで行動を制約されている自衛隊員が一番危険なんだからね。自衛隊の人たちはエリートですよ。もちろん人材育成に税金もたくさん使われているだろう。彼らが中東の紛争地域やいろんな災害地域なんかで命がけで誠実な支援をしているから、海外で日本の信用も高まるんでしょ。だからさ、国民は世論で彼らを守らないといけないと私は思うんだよね。

元祖木の国ほぼ決定!という記事で引用させていただいた動画の団体

この団体のある記事に対して、思うところがあったので、だいぶ前になるけど苦情のメールを出した。それが、ご丁寧にお電話をいただいた。すっかり忘れていたのでちょっと驚いたけど。まずはわざわざお電話をいただいたことにお礼を申し上げた。私が不快に思った箇所に関してはそういうつもりではなかったという旨お受けしました。それが謝罪だったのかどうか私はよくわからなかったのだけれど、話の齟齬というのはよくあることだ。けれども私がなぜにわざわざメールを出したのかという点について理解してもらったのかどうかがわからなかった。理解した、承知したという意味の言葉がなかったからです。私がわざわざメールを出した理由の箇所に関して、どうにかするという趣旨の言葉もありませんでした。相手の顔が見えない電話やメールでは、相手にわかりやすい言葉を使うことが大切です。話をしているうちにこの方と話をしても水掛け論だなと感じた。その方もそう思われたのでしょう。いきなり電話を切られました。つまり不快に思われたということですね。もちろん私も不快でした。一方的に切られたからです。こういうマナーをご存じない方には何を言ってもムダだということは長い人生の中で学びました。話のキャッチボール、コミュニケーションが成立しない人っているんです(いやあ、過去にもいたんですよ。このブログには関係ないですけど)。
この団体に関して私は悪意は全くありません。このような方ばかりだということはないでしょうから。多分おそらく。でも二度と閲覧したくないね。ブックマークもけしちゃおうっと。

前記事の続きっぽくF県王朝説の妙ちきりん的とある説

まあ、前記事で書いたように笑えるオカルト動画をみてたんだけども、F県王朝説を掲げる方のおひとりかと思われるお方の説によると、吉野ケ里遺跡ってF県王朝に滅ぼされたらしい。おもしろい。中でもおもしろかったのは、新町遺跡に埋葬されていた人骨が西北九州系なのが不服らしい。あの支石墓の下部構造ってどうみても西北九州系だけど、この遺跡の人だけはどっかから来たらしい。根拠は不明。西北九州系という言葉を使いたくないなら、縄文人形質っていえばいいのに。あ、笑っているのはこの方の説に対してです。この方の説だと装飾古墳をどのように説明するのかしらね。K県王朝?に征服されたってことになるのかな。

箱式石棺(屈葬)は大村湾沿岸の長崎県本土の伝統的な墓制だけど、いちばん古い箱式石棺がどこなのかわからないなあ。原山なのかなあ…。江迎のも古そうだけどなあ。甕(壺)棺や箱式石棺を表現する場合は、成人用なのか小児用なのか、合わせ口なのかそうじゃないのか、屈葬なのか伸展葬なのかを明示すべきだと思うな。

巨人


この番組自体は激しくどーでもいーんだけど、途中でアマンチュ(巨人の天人みたいな?)の劇が出てくるんだよね。番組中ではフェニキア人と言ってるね。うん、どーでもいいんだけど、古代シナの神話にも巨人が出てくるしな。南米のアマゾンでみつかったという巨人がアヤシイよな。高度な治水をやってたとかいう。どう考えても長江文明(化)だろう。今現在一番古いのは河姆渡(かぼと)遺跡だっけ。でも洪水が起きる前にもっと下流に発達した文化があってもおかしくないと思う。要するにこの巨人族と苗族系の人の混血したのが、日本で言うところの渡来系弥生人じゃないの?
沖縄諸島にたどりついたけど、稲作にはあんまりむいていなかったから北上したんじゃないのかな。もちろん、沖縄や鹿児島の海洋民の力も借りただろうと思うよ。
最近、こういうオカルト系の動画をみて笑ってたんだけども、ときどきまともなヤツも出てくるのね。その中でポリネシアの人たちが、本当に太平洋を横断できるかどうかって実験をやってた。こういう実証ってヤツは地味だけどすごく価値があると思う。ヨーロッパ人は新大陸発見とか言ってるけど、先に着いたのはポリネシア系の人たちだって話。つーか北米だって先住民がいたんだからなあ。当たり前だけど。そういえば、アメリカ先住民の人たちのDNAに白人系のDNAが含まれていたとかで、やっぱりヨーロッパ人も行ってたんだーとか喜んでいたテレビ番組を見たことがあったなあと思い出した。もともとはアジア系だった先住民と混血しただけでしょと思うけど。こういうのって、どこも同じなんだなあと思う。邪馬台国⚪︎⚪︎王朝説って要するにF県王朝説でしょ。中には堅実に考えている人もいるかもしれなけど。(あたくしは基本的にオーチョーとかオーコクとかを安易に表現するのってちょっと抵抗があります。)あ、あ、ありあけかい(島原湾のあたり)を島原と天草の海人族の了解なしに通れると思ってるところがすごいと思う。ひとっこひとりいないと思ってるんだろうなああ。
そういえば、宮崎康平先生が島原のドルメンが一番古いんだから、大陸の南から伝わってそれが朝鮮半島の方へも広がったんだと書いておられたなあ。私は大陸のドルメンがどういう状況なのかよくわからないので、まだなんともいえないけれども、大陸の南方からつたわったとするとイモガイとかゴホウラガイのルートと同じなんだよな。沖縄の古代文化ってのももっと詳しく知るべきだよなあと思う今日この頃。台湾にも箱式石棺があるらしいし。

「漢委奴国王印」と伊都国をどう解釈するか

「漢委奴国王印」。有名だから誰でも知っていると思う。『後漢書』(5世紀)に記載があり、実際に志賀島から出土している金印だ。
けれども、この「委奴国」に関しては諸説ある。「わのなのこく」と読むのか「いどこく」と読むのかということだ。
この印綬は後漢の光武帝より、57年に下賜されたものである。そして107年にも倭人が朝貢しており、そのときには「倭國王帥升」という人名が出てくるが、この人物が本当に金印をもらった国の王なのかどうかということはわからない。
私はなんとなく「いどこく」と読むのに抵抗がある。魏志倭人伝において「奴国」があったのは事実で、春日市の遺跡の繁栄ぶりは周知のことだと思う。しかし、かといって「委」=「倭」とも確定できない
後漢書の中では「倭奴國」は「倭國之極南界」とあるが、三国志の方の倭人伝の中の旁國の奴国と解釈したのだとも思える。
私は、この問題を逆から考えてみようと思う。
当初から、伊都国は謎だなあと思っていた。王がいるのに人口が少ない。ということは別のところに民がいるのだろうと考えられる。そもそも「イト」とはどういう意味だろうか。糸島には有名な志登支石墓がある。この「志登」と「いと」は同じなんじゃなかろうか。わかりやすく書くと「石(磯)戸」ではないだろうか。壱岐に「壱岐」と「石田」という二郡があるのもなにやら関わりがあるように思える。そこらあたりから派生して「漢委奴国王」を「かんのいの(ぬ)こくおう」と読んだらどうだろうか。私はかねてから、九州内での伊都国の地は志摩も含まれるのはないかと思っていた。つまり本来の国名は「イ」なのではないだろうか。
そう考えると、おのずと謎はほぐれてくる。金印を貰ったのは「イ国」(後の伊都国)であり、卑弥呼の前の大乱の際に、邪馬台国側に負けて、金印はあの妙な場所に封印されてしまったのだ。ガラス壁の存在も納得できると思う。いずれにせよ、後漢が滅びれば金印の権威は失墜するだろう。
伊都国の遺跡として有名な平原(ひらばる)遺跡の1号墓、伊都国の王墓とされているが、私はどうかなあと思う。巫女の墓には違いないだろうが、どうも気に入らないのが、あの柱だ。糸島市のサイトによると

1号墓の東側には直径70cmの大柱が立てられていました。この柱は長さが20mにも及ぶと推定される巨大なものです。この柱は長野県の諏訪大社の御柱と同じ方法で立てられていたことがわかっています。
 ところでこの大柱が何のために立てられたのかは、今のところはっきりとわかっていません。大柱は王墓から見て東に位置するところから、日の出の方向を意識していると考えられ、太陽信仰に関係するものとみる専門家もいます。平原遺跡に新たな謎が生れました。

とある。「伊都国を掘る」は読んだことがある。一応読んだという程度だ。多分あれにのっていたと思うけれども、被葬者の巫女(?)の股間に朝日がさすようにできているとか。これを聞いて感精神話を思い出さない人はいないと思う。これが事実だとすると日本の神話とは相容れない。そして、諏訪が関係あるのではないかということからも伊都国は本流ではないという感じがする。
私は今まで素戔嗚尊は伊都国人としてきた。そして出雲(出雲大社のあたりのごく一部地域)は伊都国のコピーであるとも考えてきた。
卑弥呼が死んだあと、もう一度王になろうとしたが、果たせず九州を追い出されて一時的に出雲に移ったのだろうと思う。
私は伊都国という国は、もともと対馬を経由して半島へ市糴し、なおかつ半島の方にも拠点集落を持っていた国だろうと思う。無論出雲のどこかに拠点となる津を持っていたとも思う。対馬卜部は天穂日命を祖とする。つまり、対馬は伊都国の影響が濃厚にある地域ではなかったか。ゆえに、宗像(タケミナカタ?)も中臣も元をただせば伊都国にたどり着くのではないだろうか。

結論としては、「委奴国王」は「イ(石)の国の王」であり、「倭國王帥升」は伊都国の王である。

もしかすると、石上(いそのかみ)も伊都国系なのかもしれない。

元祖木の国ほぼ決定!


https://youtu.be/Ws-XAteGKjk
↑先に見た(というか聞いた)のはこっち

熊襲のことや南九州のことを知りたかったし、紀氏にも興味があったのでこれ聞いてみた。
よくみると、この動画をアップしている団体は地域差別をしてくれるところだった。
でもこの講演をされている方の考え方は、私も共感できる部分があった。私ももともと九州が本家、畿内が分家的な考え方をしていたので。
免田式土器は熊襲の土器だと言われている。とても美しい土器で、記紀で言われている蛮族がつくるような土器じゃない。動画中で、倭人が自称「呉の太伯の後裔」だということを指摘され、それが熊襲族であるとされてます。ああ、なるほどと思った。土器のことだけでも何となく納得。だけど、呉人なのは太伯兄弟だけ(おつきのものもいたかもしれないけど)なので、後は長江あたりの人たちで、長江人と言ってもいいかな。洞庭湖の南は支配が及ばなかったとなんかで読んだ覚えもあるな。現在のベトナム人の先祖みたいな人たちだったかもね。
ただ、じゃあ縄文人はどうなったの?と思ったのと、弥生時代の熊襲はどうだったのかとか、言葉が違うんじゃなかろうかとかいろいろ思うところはあったけど。
とりあえず、九州王朝とかはおいといて、私がアレと思ったのは、紀氏の系図を思い出したこと。正確にいうと紀国造の系図。
神産霊神ー香都知命ー多久豆玉命
だった!!やっぱり、私の「彼杵、高来、藤津、天草、宇土、玉名あたりは元祖木の国」っていうのは正しいんじゃないのかな。こういう古代史を考えている方で長崎本土を入れる方はまずいないんだけど、不思議〜。根拠は何なんだろう〜。でも音だけだったので氏が主張されているのは「姫氏(太伯らの姓)」のことかもしれないな。
多久豆玉命は対馬の多久頭魂(たくづたま)神社と同じだよね。ちょうどFBに記事を書いた後だったので、なんか天啓を受けた気分。系図では多久豆玉命の孫娘の天道日女命(あまのみちひめのみこと)が饒速日命のヨメさんだ。んで、多久豆玉命の娘の大矢女命(おおやめのみこと)と素戔嗚尊の子が五十猛ってことになってる。私はこのイソタケルとニギハヤヒは同一人物だとしてるのよね。つまり、いとこ同士で結婚したってことになる(私の脳内では)。

FBの記事・・・・・
対馬の豆酘(つつ)に多久頭魂(たくづたま)神社があります。赤米神事や亀卜で有名だからご存知の方もいるでしょう。本来は「魂」はなく、多久頭神社と言うそうです。
多久頭魂神社の祭神は天照大神他ですが、境内社として高御魂神社(祭神:高皇産霊尊)も祀られているので、多久頭に魂がついたのだと思います。もう一つ上県の方には天神多久頭魂神社がありますね。
この多久頭魂というのは、対馬特有の神様の天道法師で、対馬の歴史家 永留久恵先生は「中世、古神道が仏教と習合した擬人格のシンボル」とされています。
んで、島原の小浜町の普賢神社の由緒に「温泉嶽、一名高来峰。太古日本山と称す。日之神の旧都たるを以て也。山嶺五峰あり。九州国魂五神の神体なり。」というのがある。
なんかもやもやするでしょ?
雲仙は「高来(たかく)の峰」って言うんですけど、「高来」は「たく」とも読むんですね。高来の神様は「高来津座神(たかくつくらのかみ)」といいます。
対馬と島原にはろくべえというさつまいもの麺がありますね。五島では「きれい、かわいいい」ってのを「みじょか」と言うでしょ。島原では「みぞか」と言うそうです。
つまり、島原と対馬は五島を介して通じているという証拠ですね。
以下は以前ブログで書いた記事から抜粋
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瑞穂町(雲仙市)の「屯宮祭」では出雲に旅立った神様の代わりに村人六人が神社に籠るという。これは、対馬のオヒデリ様と同じだ。
吾妻町(雲仙市)の劔柄(けんぺい、本来のヨミはタカヒと思われる)神社で行われる「ダゴがん」と呼ばれる例祭で神輿をかつぐときにかげごえは「センザイロー、ヘンザイロー」という。これも、対馬豆酘(つつ)の「サンゾーロー祭り」と同じである。このサンゾーロー祭りが有名な対馬の亀卜神事。
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やっぱりなんかもやもやするでしょう??
対馬は日本神道の源流と言われるほど古い信仰が残っているのですが、どうやら島原も同じようです。
「高来」は他にもいろいろ謎が多いのですよ〜。

↑こういうことを書いた。タイムリ〜!!
何度も書いたことだけど、熊本の郡浦(こうのうら)神社(阿蘇六社の一つ)の祭神の雨宮姫は島原の普賢神社の祭神の娘でイザナギイザナミの孫ってことになってるんですよ。普賢神社の祭神は普賢菩薩なんだけど、これは神仏混淆してるからやっぱり「高来津座神」ってことになるでしょ。つまりやっぱり高木神=高来神だ。「温泉嶽、一名高来峰。太古日本山と称す。日之神の旧都たるを以て也。」っていう伝承は本当なんじゃないのかな。高来県(主?直?)かしらね。ニニギノミコト生誕の地っていうとんでもない伝説もあるしな。
紀国造と親戚の紀氏の祖は武内宿禰だしな。現在の武雄が昔の葛津立国に含まれているのかどうかはよくわからないけど、近いしな。
武雄は武内宿禰のお父さん(屋主忍男武雄心命)がまつられている。火国造の祖という健緒組(私はたけおのきみと読んでます)とは同一人物だと思われるしね。建胆心大禰命もいるし。
心ってのは「こころ」と読まずに「ここ」あるいは「こご」と読むべきだと私は考えています。石がゴロゴロしている様子、これも何度も書いたけどね。武雄には巨石パークがあるでしょ。
こういうつながりがあるから、土地が離れているのに肥国になってるんだよ。わっはっは、元祖木の国決定じゃん。はー、思えば長い道のりだった。最初の疑問「肥前と肥後は土地が離れているのになぜ同じ肥国なのか」
うーん、じゃあ、素戔嗚尊は狗奴国人?私の理屈で言えばそうなるけど、私はそうじゃないほうがいいんだけどな。

出雲の遺跡って

前記事で南九州の遺跡がわからんと書いたけど、出雲の遺跡もわからん。私は欲しているのは集落遺跡なんだよな。出雲で検索すると荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡しか出てこない。これで王国があったとするの??
謎なんかないでしょ。矛文化の部族と銅剣文化の部族と銅鐸文化の部族が寄り集まって盟約結んだ証拠じゃんか。テリトリーの確認だな。
なぜかというと糸魚川のヒスイがあるからだな。九州からくるとどうしても拠点がいるじゃない。私は昔から言ってるけど、現在出雲大社のあるあたりは、九州のなんらかの部族のテリトリーだったと思うよ。

倭大国魂

倭大国魂ってどうしてわざわざ「倭」がついているんだろうと思う。
大国主ってのはわかってるんだから「倭」をつける必要はないんじゃなかろうか。
椎根津彦を倭の国造にするってのもよく考えると、アレ?と思う。
うーん、「(今現在)倭にある大国魂」という意味かしらね。あ、それならわかるかな。神宝を集めたって記述はどっかにもあったなあ。垂仁紀か。むじなのヤツだ。
なるほど。この時期に「石上の神宝」を集めたってことか。つまり彼杵の珠も同じ時期ってことだろう。彼杵は景行天皇の時代にはなってるけど。だいたいさ、むじなの話がのるくらいなら、彼杵の神宝ものっていいと思うんだけど。おかしいのよね。

北部九州の弥生人

いろいろ考えた。
北部九州の伸展葬の箱式石棺は朝鮮半島の人なんじゃないかと。と言っても朝鮮半島にはいろんな人が住んでいた。
土着の元縄文人=汗人
古くに大陸から来て住み着いた人=韓人
言葉の違う人
北方系の人
九州から来て、拠点集落にいる倭人=在韓倭人
九州から対馬を拠点にして一時的にいる倭人=対馬倭人
ほんとのところは汗人と韓人は同じなんだろうけど、区別するために便宜的にこうしておく。
汗人と対馬韓人と在韓倭人は言葉が通じると思う。
対馬倭人と在韓倭人は同族だろう。
私は素戔嗚尊はこの行き来している倭人なんじゃないかと思う。高天原を追い出されたあと、九州側のシンパをひきつれて半島へ行くけれども、やはり日本側がいいと思って出雲へ行ったんじゃないだろうか。
古い時代から半島で鉄を採っていた部族が素戔嗚尊の部族じゃなかろうか。だから弥生時代の後期に北九州に箱式石棺が急増するんじゃないだろうか。
もちろん、半島と行き来しているのは素戔嗚尊の部族だけではないけれど。
よく、素戔嗚尊が奴国人だという説がある。じゃあなんで宗像はあそこにあるんだろうと私は思うんだよなあ。
熊本だって鉄器はたくさん出るでしょう??
卑弥呼が死んだ後、大乱が起こるけれどもその時期って半島や大陸もゴタゴタしてたんじゃないだろうか。
たとえば、新羅なんかも王の系統が3つある。まずこれが統一国家でない証拠だ。無理やりつくられた国であることがわかる。加羅はもっとひどい。
だから、日本側が統一を進めると同時進行で、半島側の倭人、在韓倭人、汗人もまとまろうと努力したんじゃないだろうか。そのとき日本側にいた張政さんのアドバイスもあったんじゃなかろうか。
じゃあ、素戔嗚尊は日本側ではどこの人だろうかと考えると、やっぱりよくわからない。倭人伝と神話を比べてみると、狗奴国人が浮上するけど、狗奴国はどう考えても北部九州とは思えない。それによく考えてみると、素戔嗚尊が伸展葬の箱式石棺を行う部族だとしたら、出雲も北部九州と同様に箱式石棺がたくさんあると思う。とすると、弥生時代後期に北部九州に箱式石棺をたくさんつくった人たちは、在韓倭人ではないかと思う。のっぺり弥生人は大陸系だろうから、主に江南あたりから船にのって半島に到着し、そのままそこに住み着いた人とと九州に住み着いた人がいたんじゃなかろうか。当然、受け入れたのはもともといた汗人だな。
私は北部九州箱式石棺族は、雷大臣系統の在韓倭人ではないかと思う。その人たちが、素戔嗚尊の帰国と一緒についてきたんじゃないだろうか。

投馬國=薩摩川内市に自信がなくなってきた

どうにもわからん。遺跡あるはずだと思うんだけど。

私が求めているのは墓じゃなくてー、集落遺跡なんだけど。
さっぱりわからん。
私は投馬國は薩摩川内市と決めてたんだけど、ないのかなあ〜。探してもよくわからん。鹿児島の方がこのブログご覧になってたらアドバイスください。
このままじゃ、予定が狂うなあ。
あと、台与邪馬台国を熊本の菊池郷にしてたんだけど、これもやっぱりわからん。
それよか山鹿市の方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき)が気になってきた。玉名(狗奴国の一部に比定)の近くだし、これでもいいかなあ〜。これってぴったり私のイメージに合うんだけどな。弥生時代後期〜古墳時代前期って理想どうりだ。短期間で営まれているってことが。
卑弥呼邪馬台国は吉野ヶ里でもいーや。これもイメージに合うんだよなー。後期になって北の方へ拡大するってところ(吉野ケ里遺跡のサイト参照)が。ただ、墓がネックになってるだけ。でっかい円墳を欲する。エンフン!

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