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原山ドルメン

原山の支石墓のことが結構くわしくのってた。

原山ドルメン
 西紀前四百年代になると、北有馬村原山に支石墓(ドルメン)という特殊な墓制をもつ文化が現れる。
 原山遺跡(18)は、これまで、しばしばとりあげてきた諏訪の池の東北に位置する開拓地である。標高は二百五十米、なだらかな小丘陵が波打ち、丘陵内の浅い谷間には小川が流れ、わずかながら水田耕作が営まれている。
 昭和三十一年、第一回の学術調査が行われ、原山ドルメンが学界にクローズアップされると、島鉄バスでは、小浜〜有家線に〝原山ドルメン停留所〟を設けた。遺跡の中心地までは、この停留所から、畑中の一本道路を歩いて十分で行ける。
 さて、原山遺跡について述べる前に、まず支石墓の概念を頭に入れておく必要がある。
 ドルメンはヨーロッパからペルシャ湾、地中海を経てインド、ボルネオ、ビルマ、タイ、安南、満州、北鮮と分布する。所と時代によって形式は多少違うが、ヨーロッパのドルメンは新石器時代の巨石記念物の一種で、三個以上の巨石で側面を囲み、上を一個の扁平な巨石でおおった古墳である。
 ドルメンというのは、フランスの地方語ブレトン語でドルは「卓」メンは「石」を意味する。したがって、英訳するとテーブルストーンとなる。
 支石墓というのは朝鮮で名づけられたものだが、南鮮北九州のものは、ヨーロッパのもののようにテーブル型ではなく、丈が低く、碁盤の形をしていて、規模も小さい。字義がしめす通り石で支えられた墓という意味で、扁平な石(上石という)を三個〜六個ぐらいの石で支えその下に死体を埋葬している。原山の支石墓も、この形式である。
 日本では福岡、佐賀県に最も多く、熊本、長崎、大分県下に分布する。
 時代は西紀前百年頃に発生し、西紀二百年前後までには消滅するといわれている。すなわち弥生式文化の中期初頭に現れ、後期に姿を消すというのである。
 九州には南鮮から伝播したものとされているが、南鮮の支石墓が若干古いとしても大差はない。
 このようにみてくると支石墓は弥生式文化の中の特殊な墓制ということが出来る。そして内部主体は様々である。
 土壙あり、単甕棺あり、合口甕棺あり、石棺ありで、所と時代で変化している。
 原山のドルメンが、他の九州各地のドルメンと異なる点をあげると、まず、外形は北九州のものと同系統であるが、内部主体が違っている。土壙もあるが、多くは原山だけでみられる箱式石棺である。原山の石棺は縦八十糎、横五十糎、深さ六十糎ぐらいの小さなものである。
 これでは、人を寝かせて葬ることは絶対に出来るものでなく、縄文式文化の風習である屈葬(死体を折り曲げて埋めること)による以外にない。また支石墓周辺の、あるいは土壙の中、上石と石棺の間から見つかった土器は、山の寺式の一番新しい形式、または縄文土器で一番新しい夜臼式と呼ばれる形式のものである。
 次に立地条件であるが、他が平地あるいは低丘陵地帯であるのに対し、原山は標高二百五十米の高原である。
 さらに、その数であるが、他は多くて、せいぜい十五基を出ないのにくらべ、原山の場合は百基をこえる。
 以上のことから、まづ原山支石墓は、弥生式時代の築造でないことがわかる。したがって支石墓が弥生式時代の特殊墓制という定義からはみ出してしまう。また南鮮や北九州の支石墓の影響を受けたものではなく、つながりがあるとすれば逆に原山から影響を与えたことにある。
 数が圧倒的に多いということは、集団墓地的性格を現すもので、北九州その他の支石墓が特権階級の家族墓とされていることといちじるしく違う。このことは単に階級差発生以前という年代的な古さをしめすものか、あるいは原山人が特殊な民族であったのかは、いまのところわからない。いずれにしても日本最古最大の支石墓群であることは、誰しも否定出来ないことである。
 学界では、便宜上原山の支石墓群をA、B、C、Dの四地区に分けている。
 C地区の一部は、県指定の文化財として保存されている。またD地区楠峰(くすがみね)の杉林には四十五基がるいるいとして残っていたが、昭和三十五年、日本考古学界によって発掘調査された。次に原山支石墓の大きさであるが、上石は直径一米五十糎、短径一米三十糎、厚さ十五糎ぐらいが標準で、他にくらべて小型である。なお、日本で一番大型は、福岡県の須玖遺跡にあるもので、直径三米三十糎、短径一米八十糎、厚さ三十三糎である。
 では、原山の支石墓は何処から伝えられたものかというと、…いまのところわからないのである。ただ、その古さからいっても、南鮮や北九州の影響を受けたものではないことは明らかである。
 米や織物のように中国大陸から直接運ばれたもの…と解したいところであるが、前にも述べた通り、中国にはドルメンは分布していない。では、南の東南アジアの方から伝わったのだろうか…。しかし、これとて断言は出来ない。もしも今後中国でドルメンが発見されることにでもなれば、問題は別だ。最近、中国でドルメンらしいものが発見されたと伝える人もあり、その分布状態からみても可能性はたしかにある。
 とにかく、二千四百年ばかりまえ、島原半島の一角に、ドルメンが忽然と発生した。ドルメンを築造した原山人は、勿論、米を作ることも布を織ることも知っていた文化人である。
 しかし、彼等は、原山の丘に百年とは住まなかった。彼等は、また、忽然として、姿を消すのである。
 原山人とはいったい、どんな人達だったのだろう。…まだまだその実態はナゾにつつまれている。
島原半島の古代文化(概説と年表)
宮崎一彰、古田正隆、上田俊之

文中で「布を織ること」とあるのは、島原の礫石原(くれいしばる)遺跡(縄文晩期初頭)で『組織痕(そしきこん)土器』紡錘車が出ているため。

原山の人々がどこに行ったのかは謎だなあ。私は弥生時代には島原の北部にいたんじゃないかと思いたいけどなあ。対馬に行った可能性もあるしな。
原山は石棺だけど、長崎県本土内で石棺(弥生)が多く出るのは大村湾沿岸なんだよ。けれども、北部の方には有名な門前遺跡(佐世保)があるね。これもかなり古いからね。部族は違うハズだよ。

<後日つけたし>
引用(というには長いけど)文中で、ドルメンが弥生時代の墓制とか書いてあるけど、この本は大変古い。現代ではドルメンは縄文晩期から弥生にかけての墓制ってことになってますね。

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