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「神武東遷」と張政さん

なんとなくうっすらと時代がわかってきた。
謎の3世紀の後半から4世紀のことだな。

張政(ちょう せい)
三国時代の魏国の支配地域であった帯方郡の武官で肩書は塞曹掾史(さいそうえんし)
帯方郡太守、王頎の部下。 正始8年(247年)に邪馬台国が狗奴国と紛争になった際、魏から派遣された役人(塞曹掾史)。その後、20年近くを邪馬台国で過ごして泰始2年(266年)に帰国したとする説もある。
(Wikipediaより)


具体性のある饒速日の東遷
 記紀の神武東遷の話は、大雑把な記述になっていることが多い。その主な点を列挙しよう。
①出発にさいしての船とそれに乗る人たちの記述に具体性がない。「諸々の皇子と船師を帥(ひき)いての東征」とあるだけである。これではどのような船でどのような組織の水手(かこ)だったのかなど肝心なことが不明である。
②東遷の道筋として、日向から豊予海峡をへて宇佐へ行っているが、不可解にも一度瀬戸内海から関門海峡を北へ出てしまい岡水門(おかのみなと)(岡田宮)に滞在している。岡水門は遠賀川の河口にあって、右岸に山鹿、左岸に芦屋の港がある。遠賀郡には宗像神社があることは先にもふれた。玄界灘に望んだ岡水門へわざわざ立ち寄っている。
 岡水門から瀬戸内海へ戻り、安芸の埃宮(えのみや)(多祁理宮・たけりのみや)に七年も滞在している(『記』)。この宮を瀬戸内海の北岸にあったとみる人が多い。だが安芸国(のちの備後の一部も含む)の古墳の分布をみると、瀬戸内海地域よりも北方の中国山地にもほぼ同数の古墳がある。三次(みよし)郡・高田郡・高宮郡などの中国山地の地域は、現在の行政区分では広島県だが、川の水系では日本海域になる。その川とは江の川(ごうのかわ)である。江の川の河口は石見の江津(ごうつ)だが、歴史的には出雲地域である。江の川の上流は可愛川(えのかわ)とも書く。江を地名でエとよぶのは相模の江の島などの例がある。
 江の川上流は、出雲の鉄などを瀬戸内側へもたらすうえでの重要な中間地域で、耕地の広さのわりに古墳が多いのもそのような交易の要衝だったことと無関係ではなさそうである。伝承にすぎないとはいえ神武軍が埃宮に滞在したことに何らかの意味があったとすれば、鉄製武器の入手を念頭においての伝承と考えられる。
 このあと吉備の高島に行宮(あんぐう)を作り、三年のあいだ兵食を蓄えたという(『紀』)。『記』では高島の滞在は八年となっている。簡単に兵食を蓄えるとはいえ、自分たちで田畠を開拓して食料を作る場合と、土地の豪族の協力をえて入手する二つの場合がある。この点の説明がないのも不自然である。 ③神武東遷では日向を出発してから十八年を要している。これは長すぎると感じる。例えば建武三年(一三三六)に建武の中興の功臣・足利尊氏が京都で失脚し、再起をはかるため九州へ行った。勢力を挽回した足利軍が摂津の湊川で新田義貞や楠正成らを破るまで三ヵ月しかかかっていない。
 これを見ても戦争の準備とか軍隊の立て直し、さらに軍の移動は短期間におこなわれるものであって、神武東遷には真実味が乏しい。
『敗者の古代史』森 浩一 著 より

この「神武東遷」のルートに関しては、記と紀で食い違いがあったり、なぜ遠賀川流域まで行く必要があったのかというような謎が多い。
私はもともと「東遷」したのはイワレヒコではなくイツセノミコだと考えている。イワレヒコが実在したのなら、彼がやったことは九州内の統一だろうと思う。
無論、それ以前にニギハヤヒ・ニニギの「降臨」は行われている。
卑弥呼が死んだ後の「男王」は排斥されるね。その勢力がニギハヤヒの勢力でしょ??単純に(男王がニギハヤヒだとは言えないけれど)。
なぜ、冒頭に張政さんのことを引用しているかというと、「神武東遷」にかかった時間と張政さんの倭国滞在(?)の時間が近いということ(ほんとにずーっといたかってことはわかりませんがね)。
そしてまた私はサルタヒコは張政さん自身かあるいは、一行の中に西アジア系の人がいてその姿が当時の人々の記憶に深くきざまれたんじゃなかろうかと考えている。
また、神武がかかげたという「金鵄(きんし)」だけど、これも「黄幢(こうどう)」だと解釈すれば納得がいく
魏の方はどうかと言えば、家臣だった司馬懿(しばい)が跡目争いに乗じてあれこれやっていて、結果、禅譲という形で魏から西晋へかわる。
張政さんもそういう動向は当然知っていただろう。だからさ、親魏倭王の金印の権威が失墜する前に倭国をどうにか統一する必要があったんじゃないかと思える。
あと、気になるのは韓地の方だね。あちらは倭国(日本側)内よかもっと大変のようなカンジがするね。韓地にも倭国の地はあるんだから、そちらもどうにかしないといけないでしょ??張政さんの入れ知恵かどうかはわからないけれど、韓地の倭人のムラを統一するために派遣された集団があるハズだよ。それが素戔嗚尊でもおもしろいんだけどね。その結果、『三国史記』において、国の建国に倭人がかかわっているというような表現になるんじゃないの??
遠賀川と言ったら宗像でしょ??天照大神と素戔嗚尊のウケイにも出てくるしね。宗像三女神の航海ルートが最初アマテラス側だったのかスサノオ側だったのかってのもイマイチはっきりしないけど。今のところは、スサノオ側から人質をさしだして、そのかわりに航海ルートを手に入れたと考えてはいるけれど。
神武のルートって重要な「津」を押さえるために動いているようにしか思えないんだよな。その「スサノオ側」ってのが私は伊都国勢力じゃないかとふんでるんだけどさー、なんか矛盾するようなこともあるからなー。



江津ってここですね。その先は??出雲ですよ〜。ホラ、ここで国譲りが浮き上がってくる。おもしろいねー。
ここらあたり、ものすごく急速にいろんな事象が行われているんだろうけど、なかなかまとまらない。崇神は3世紀の終末か4世紀の初期に畿内へ行ってると思うけど、それまでの記紀のできごとは九州内でのできごとも含まれていると思う。だから風土記なんかも一緒に考えた方がいいね。

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コメント

どういう内容なんでしょうね。他の読者さんのためにもね。

出雲王家
オオクニヌシとスクナヒコの末裔の富家の
伝承を公開した斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』だったか、かなり面白いですよ

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