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『原始・古代の長崎県』より抜粋

第四章 狩猟・漁撈と採集の生活〜縄文時代〜

第二節 海との関わりを持つ文化

一、大陸文化との関わりのなかで

海浜を埋めた異文化
 昭和41年(1966)6月23日長崎県西彼杵郡野母崎町脇岬遺跡の発掘現場に、韓国高麗大学校教授金廷鶴が来訪された。長崎大学医学部教授安中正哉の招待で脇岬遺跡の発掘に参加するためであった。  脇岬は東シナ海に突出した長崎半島の先端に位置し、そこに東シナ海に出漁する漁民の町がある。この岬に突き出た小半島の西海岸は冬季の季節風が吹きよせ規模の大きい砂丘が形成されている。砂丘の帯は約1キロに達し、高さは2メートル以上もあった。その砂丘から調査に参加していた学制が手掌一杯の陶磁器の破片を拾い集めてきた。それは中国江南の龍泉窯と推測されたが細かく割れて角がすれおち、面子状の小礫のように見えた。早速採集場所を訪ねてみると、そこには砂丘に薄く陶磁器小片の層ができていた。また砂層が崩れ落ちた波打ち際にも陶磁器の破片が散乱しているのがみえた。
 1976年1月韓国南部木浦近くの新安の海底から漁民の網にかかった六点の青磁が発見された。それを契機に1977年まで韓国文化財管理局の調査、ドン・キーツ(アメリカ海洋考古学者)の提言による学術発掘調査が行われた。沈没船体および遺物の分布調査と実測図が作成され、陶磁器初め4723点の遺物が引き上げられた。このことによって沈没船が南宋から高麗を経て日本(博多)に向かう「日宋麗の交通」の貿易船であったことがわかった。
 脇岬砂丘の散布陶磁器は遭難によるものとの断定は避けるべきだが、磁器の磨耗状態からみて長く海底を移動したものと考えられるので、深海での遭難船の積み荷の可能性は高い。また陶磁器の海底放置は陶磁の特徴からみて韓国新安海底の遭難船とほぼ時期を同じくするものとみてよい。脇岬の陶磁器の散乱は中国、韓国、九州の「海流の道」を具体的にあらわす重要な資料であった。
 平成7年(1995)長崎県教育委員会の遺跡確認調査で、対馬上県町一帯、海岸近くの遺跡をみる機会を得た。そこでみたのは、韓国南部からの朝鮮海峡を漂流して対馬西岸に漂着したおびただしいゴミの山であった。とくに腰高遺跡の前の階段ではビニール製品の各種容器、ゴム製の漁具、そのほか木製道具を含むあらゆる生活用具が打ち上げられていた。その中にハングル文字で標記したものがあった。このおびただしいゴミを分析すれば現代韓国の生活の一部が分かる。これらをゴミとしてみれば処置が大変であるが、現代韓国の生活の一部を知る遺物と考えると「韓国文化」の一面を探ることができる。
 長崎県の海岸線の延長は4165キロで、離島は県全体の44・8パーセントを占めるといわれ、大陸、朝鮮半島に面して、影響を受けやすい。そして現代韓国の生活遺物が多く漂着する上県町の海岸に韓国新石器時代早期の江原道襄陽郡オサンリ遺跡、釜山市東三洞遺跡から出土する隆起文土器、櫛文土器に似た土器が発見されている。このゴミと共通の先史時代遺跡土器分布の因果関係を見落としてはなるまい。
 長崎県の縄文時代の文化が、いちはやく大陸半島と交易の扉を開くことができたのは、対馬暖流とリマン寒流による「海流の道」、半島から九州を結ぶ「海の島道」を舞台とすることから始まる。朝鮮半島と九州の「海流の道」について横山将三郎は大原利武が日露戦争の浮流水雷の漂着から推理して作製した地図を使用し、海流による文化伝流論を述べている。その学史的問題提起から改めて長崎県の縄文前期文化を紐解いてみようと思う。


長崎県の縄文前期遺跡
 長崎県と韓国の南岸は海峡を鋏んで対峙し、北端の対馬は釜山市と一衣帯水の地にある。もっとも近い上県郡上県町の海岸では晴れた日、韓国の山々が見え、夜には釜山の夜景も見られる。まさに指呼の間で、韓国から海峡を越えて九州への最初の島である。しかも対馬は大陸から孤立した位置にあるとはいえ同じ海流に洗われ、何時の時代も同じ環境のもとで暮らしていた。後氷期の寒冷な時期が過ぎ、暖かい時期を迎えた縄文前期の頃、全島は照葉樹林に覆われ、海進期の海は漁撈に適した環境をつくりだした。海峡を泳ぎ回遊する漁撈の道具も同じであった。
 縄文前期の九州西北部は貝殻条痕で器面を調整し、鉢形、丸底の土器が流行した。次に同じ土器にミミズバレのような「細隆起線文」(轟式土器のもとの呼び名)が広く分布するようになった。この細隆起線文土器が轟式土器である。轟式土器を出土する遺跡は熊本県宇土市(旧轟村)宮ノ荘にあり、百メートル四方に及ぶと推定される貝塚である。轟貝塚は大正8年(1919)に京都大学教授浜田耕作によって発掘され、九州の考古学史にとって重要である。調査後の大正9年に「肥後宇土郡轟村宮荘貝塚発掘報告」として出版されている。
 轟式土器についで注目されたのが土器の表面に細い線を刻む「刻線文土器・細線刻文土器」(曾畑式土器のもとの呼び名)が縄文前期後半に広く分布する。この曾畑式土器は轟貝塚に近い宇土市岩古層字曾畑田にある。大正12年(1923)清野謙次によって発掘された。曾畑式土器については発掘以前の大正7年(1918)中山平次郎により「肥後国宇土郡花園村岩古層字曾畑貝塚の土器」として考古学雑誌で報告されている。
 長崎県の縄文前期、轟式土器を出土する遺跡は五島列島大板部洞穴をはじめ北松浦郡田平町つぐめのはな遺跡などほぼ全県にわたる。曾畑式土器は福江江湖貝塚をはじめ西彼杵郡多良見町伊木力遺跡など、広く本土、離島の各地に及び、希薄はながら海を越えて韓国南部にまで到達し相互に交流している。縄文前期は海岸の時代であり、韓国南岸地方との交流の時代といわれてきた。海に生きる海岸の時代を考古学の見地から追求してみることにする。


海を渡る考古学と対馬
 韓国南岸と北部九州の交流は一衣帯水の地理的環境にある対馬からというのが常識である。その対馬と韓国南岸の交流が何時から始められたのか、この課題はかなり難解である。この課題に答える考古学研究は対馬藩政時代の平山東山の「津島記事」に始まるが、発掘によって研究されたのは鳥居龍蔵である。鳥居龍蔵が対馬の調査を始めたのは大正4年(1915)で志多留貝塚の調査であった。当時鳥居の案内者として同行した浦田正雄によって志多留貝塚の発掘の様子が「考古学者として初めて対馬を訪れ全島的調査された鳥居龍蔵先生」(『鳥居龍蔵博士の思いで』)昭和45年(1970)によって知ることができる。
 対馬における考古学調査は昭和20年以降、積極的に行われた。昭和23年(1948)東亜考古学会(団長梅原末治)をはじめとし、昭和25年、6年(1950、51)九学会連合対馬協同調査委員会などが相次いで調査をはじめた。九学会の調査は志多留貝塚の発掘を行い、『対馬の自然と文化』(総合研究報告、二、昭和29年、1954)で出土土器について水野清一は縄文前期、轟式とし、杉原荘介は縄文後期、津雲式として違った見解を述べた。この調査では人骨の出土もあり、結合釣針の一部も出土していることで極めて重要な発掘であった。
 対馬全域の調査を目指したこれらの調査は弥生時代の以後の調査が主で、対岸の韓国南部との色濃い調査に終止したが、縄文前期遺跡にふれるものは少なかった。
 海を渡る考古学、特に先史時代の研究は横山将三郎先生による「釜山府絶影島東三洞貝塚報告」(『史前学雑誌』第五巻第四号・1933)である。釜山市絶影島(影島)は対馬の北西海岸の志多留貝塚とは朝鮮海峡を挟んでまさに指呼の間にある。この調査では灰色表土(一層、二層)、黒色腐蝕土(一層、二層)、貝層、粘土層に分け層位的に分類して調査が行われている。土器の文様については「幾何学文に属し、点、線分、弧、直線および折線が単一、複合するものを一群、点、線分が合成して一文様になるものを二群、並行線刻の集合、組み合わせによる合成文様を、構造によって三、四群」としている。櫛文土器の基本を描いた分類である。そして東三洞貝塚の調査は以後の交流の研究に大きな示唆を与えることになった。
 対馬の対岸、釜山市東三洞貝塚発掘から43年後の昭和51年志多留貝塚の南、腰高遺跡の発掘が行われ、おびただしい韓国系土器がみつかり、以後にわかに日・韓、海を渡る考古学が盛んになった。


対馬腰高、腰高尾崎遺跡の発掘
 韓国国立中央博物館は1969〜71年にわたって、横山将三郎調査以来の釜山市東三洞の発掘を行った。この調査にはソウル大学校の研究員として留学中の坂田邦洋(別府大学)が参加し、ソウル大学校教授金元龍の要請ですべてを中央博物館で整理することになった。その整理中、五層出土の土器に隆起文土器が含まれていたことに坂田は帰国後、昭和51年(1976)12月対馬腰高遺跡の調査(長崎大学医学部、上県町教育委員会協同)を行った。
 腰高遺跡は上県郡上県町大字腰高、集落の西、もと畑地であったところに遺跡があり、現在は海蝕によって崖面が露出し僅かに土器の包含がみられる。この発掘で韓国式土器(隆起文土器)の発掘をすることができた。
 調査後、検討を加え韓国考古学会、第二回大会に要請をうけていた筆者が坂田にかわって発表(昭和52年(1977)11月「九州と韓国の考古学」第二回韓国考古学会・ソウル崇田大学校)することになった。このことから腰高遺跡出土(東三洞五層)土器が櫛目文に先行する土器形式として注目されるようになった。
 腰高遺跡は集落の西、湾の北岸に位置していた。現在は山の斜面になっており、海岸近くは崖が露出している。当時は地形の関係で、第一、第二の小調査区を設けて精査が行われた。遺物包含層は厚さ40〜60センチの砂岩質小礫混じりの黒褐色砂質土壌であり、包含層から2648点の土器がみつかった。坂田邦洋は出土土器を細分して、五形式に分類し、東三洞貝塚1期(先櫛目文期)の隆起文土器と同じ系統の隆起文土器を「腰高式土器」とよんだ。東三洞出土の隆起文土器は横山将三郎の報告(隆起式、穂祖先隆起式)にあたるものであるが、坂田はこれを韓国南、頭部の櫛目文土器以前の土器として層位的見方を確立した。腰高遺跡の隆起文土器は現時点で日、韓先史土器の最初の交流資料として注目される資料となった。
 さて腰高遺跡に続いて腰高尾崎遺跡の発掘が昭和53年(1978)に上県町教育委員会が中心になっておこなわれた。遺跡は腰高遺跡に隣接した位置にあって遺物包含層は六層に分類され、689点の土器が出土した。層位と土器形式の分類から六層、10形式に分類してそれぞれの層位と土器を検討し、興味深い見解が述べられている。
 二層は胎土に石英粒を含んだ縄文前期末、曾畑式土器、三層轟式、四層轟式、わずか二点であるが塞ノ神(せのかん)式が出土している。六層隆起文土器が層位で出土している。ここでは、腰高式土器を五類から十類までの五種類に細かく分類し、東三洞貝塚の隆起文土器と対比して隆起文土器の再確認を行っている。注目されることは、轟式と隆起文式土器は層位を異にすることを明らかにしたことである。
 隆起文土器をはじめとして多くの問題をもつ腰高尾崎遺跡出土の土器で注目すべき問題と整理すると、二層二類は轟、曾畑の両形式をもつ土器であること、轟─二層二類(阿多V式─鹿児島県阿多貝塚)─曾畑、という編年ができることで、轟式から曾畑式への変遷が辿れる。
 問題の六層隆起文土器は、腰高の隆起文より少し新しく、東三洞より古いとし、腰高─腰高尾崎六層─東三洞五層に編年して縄文前期前葉の土器としている。
 坂田邦洋が韓国土器という名で呼んだ隆起文土器の分布範囲について金元龍が何となくという表現で、海峡を隔てた隆起文土器圏が成立する「狭海峡地帯」こそ隆起文土器が発生した所ではないか、とする考えを述べている。この「狭海峡地帯」は「海峡の漁撈具」(石器、骨角器)とともに重視する課題である。腰高遺跡、腰高尾崎遺跡の発掘が果たした意義は、朝鮮半島との交流にかけた問題として大きい。


鰲山里(オサンニ)遺跡の発掘と「狭海峡地帯」
 対馬腰高遺跡発掘の五年後、1981〜83年まで韓国東岸、江原道襄陽郡鰲山里遺跡が発掘された。この発掘調査はソウル大学校教授任孝宰が中心になっておこなわれた。この発掘で任孝宰が「鰲山里タイプ」と呼ぶ土器が出土して注目された。それは鉢形平底の土器で、胴体に複数の隆起文を横走させて文様とする土器で、対馬腰高遺跡出土土器に対比できるものであった。発掘された土器をソウル大学校博物館でみると、土器は口径23・5センチ、高さ16センチ、高さは口縁部に比して短く低い。口縁部は反りがなく直行し、やや丸みをもち胴部に太い隆起文六本を並列横走させている。器形は鉢形で、表面は黒褐色裏面は褐色である。やや大振りで高さ26・4センチの同じ形の土器の口縁部には三列に爪形文を施している。
 鰲山里遺跡では炉跡のある1〜6の竪穴住居跡が調査され、そこから土器、石器(結合釣針、石製軸部)、骨角器などが出土し、それぞれの竪穴を単位として遺物の分析が行われている。住居跡は1〜6層に分けられて調査された層位の五層に集中し、その年代は放射性炭素による測定で7120〜6130年前という計測値がでている。遺物の集中する五層の土器は細かく層位別に1〜7にわけ押捺+陰刻文に分けて分類されている。
 隆起文土器の出土は、鰲山里遺跡、釜山市東三洞貝塚、同じく凡方(ポンパン)貝塚、統営郡上老大島遺跡などの韓国南島から、対馬腰高尾崎遺跡の範囲におさまり、土器の組成も類似している。
 坂田邦洋は腰高尾崎遺跡の調査土器の特徴から、隆起文土器を韓国土器として腰高─腰高尾崎六層─東三洞五層と編年できるとしているが、これに鰲山里を祖形式として、鰲山里五層─腰高…と分類できるようである。鰲山里の隆起文が太く複数で際立っているからである。
 隆起文土器を隆起文と隆起線文に分け、太形で無文隆起文(鰲山里五層)、隆起刻文(腰高)と無文線文と隆起線刻文(腰高尾崎六層、東三洞五層)に分けるとさらに分かりやすいように思う。
 最近、田中聡一は「韓国新石器時代の隆起文土器について」という論文を発表し、韓国南東部出土の隆起文土器の分析を行い、示唆に富む研究を行うとともに、日本の縄文土器との対比を行っている。田中は対馬腰高、腰高尾崎遺跡の共伴関係を基準にして隆起文土器を縄文早期後葉と前期初頭に分けている。これまで多くの編年を緻密な分類法で分析し、証明した点で注目される。
 さて隆起文土器の出土範囲は金元龍の「狭海峡地帯」つまり韓国南部から対馬の間、朝鮮海峡を巡る文化とした。韓国南東部では、鰲山里遺跡から韓国有文土器(櫛文土器)の発展がみられ、対馬腰高、腰高尾崎遺跡の隆起文土器共伴の縄文土器は前期を越えないことも理解できた。鰲山里─腰高の韓国土器と縄文前期初頭文化との交流は金元龍ではないがなんとなく「狭海峡地帯」の文化としておきたいような気がする。


五島大板部洞穴の発掘と凡方貝塚五層土器
 「狭海峡地帯」に分布する隆起文、隆起線文土器は韓国土器として海峡を挟んで分布することが明らかになった。そして轟、曾畑系の土器と櫛文土器が相互に交流しているといわれたが、土器の胎土の違い、焼成の違い、器面調整の貝殻条痕の有無など今後の研究課題としておきたい。ここでも「なんとなく」形や文様が似ているということで交流の土器として轟、曾畑式土器と櫛文土器が当てられる。ところが最近になって「狭海峡地帯」に分布する隆起文、隆起線文土器の共伴研究から、相互の先史土器の交流が明らかになり、「狭海峡地帯」から「越海峡地帯」の文化に発展してゆく様子が次第に明らかとなるようになった。
 昭和59年(1984)橘昌信を中心として調査された大板部洞穴は、五島列島福江市の南東12キロの海上に浮かぶ周囲約3キロ、テーブル状の孤島である大板部島にある。島は火山によってできた島で、遺跡は島の中の溶岩洞窟の内部にある。洞窟は開口部(横穴)を入ると上、中洞の二手に別れ、再び合体して奥に縦穴の開口部に到達する。この奥の縦穴開口部の下に海水の溜まり場があり、底に貝塚が形成されている。この水中貝塚から出土した土器が轟式土器である。
 復元された土器の形をみると、韓国ソウル市岩寺洞(アムサドン)遺跡出土の櫛文土器を思いだす。両者の形はそれほどよく似た砲弾形の深鉢形土器であった。土器は褐色で口径34センチ、器高37・7センチで、表裏は轟式特有の細かい貝殻条痕で調整され、文様としてミミズ腫れのような細隆起線文が施されていた。細い粘土紐は菱形に重複させて単位文をつくり、それを単位として十分割されていると分析されている。口縁部に刺突文を施し、そこから隆線文を器面全体に施文せいている。土器の特徴から、調査者は轟B式に当てられるとして縄文前期に位置づけている。
 最近釜山直轄市立博物館によって凡方貝塚が発掘され『凡方貝塚』(一、1993、二、1996)が出版された。同書一に詳しく出土土器を述べており、111ページに「口唇刻目土器」として実測図と写真を添えて述べているのが目を引く。土器は深鉢形で底部は円底とし、口縁部は僅かに内湾し口唇部に刻み目をいれる。色調灰褐色、口径33・6センチ、器高35・4センチで器面の表裏に細かい貝殻条痕を施している。これを大板部遺跡の土器と比較するとやや膨らみを感じ、高さが僅かに低いほかは器形、焼成、土器表裏の調整など同じである。文様として細隆起線文を欠くものの特有の貝殻条痕をもって器面を調整仕上げした点は類似している。この無文条痕仕上げの土器は九州の縄文土器の特徴で、轟式の系統とみてよい。
 大板部洞穴、凡方か貝塚五層出土土器の対比は縄文前期前葉の土器が韓国南部に到達したことを示す貴重な土器である。このことは韓国土器(隆起文)が対馬に到達したことと合わせて彼我の交流研究に大きな足跡を残すことになった。また凡方貝塚出土の無文円底の特徴や膨らみのある器形が韓国南部の櫛文土器の特徴とすると、貝殻条痕を加えた合体の土器になるかもしれない。いずれにしても注目すべき土器である。
 さて砲弾形にまとめられた深鉢形(丸底)の器面に細い隆起文を施した土器を轟B式土器と総称して九州の縄文前期の標式土器としてきた。この特徴ある土器の前後の土器についての問題についてはこれまで資料に欠くところがあって展開に難しいところがあった。最近轟B式から曾畑式土器の間をつなぐ研究が長崎市深掘遺跡の発掘によって出土した資料によって補われようとしている。轟B式土器の展開、曾畑式土器につなぐ文化土器を深掘遺跡から探ってみよう。


深掘遺跡発掘における新展開
 長崎市深掘町周辺では昭和37年(1962)以来七次の調査が行われてきた。七次調査(昭和55年)は長崎市教育委員会によって行われた。調査成果は『長崎市立深掘小学校校舎増築に伴う埋蔵文化財緊急発掘調査報告書』(長崎市教育委員会、昭和59年 1984)で詳細に述べられている。
 この調査によって縄文前期の研究に注目すべき問題提起があった。それは第九層(砂礫層)から出土した土器の分類によるものである。第九層から出土した土器は第三群土器として分類し、深鉢形土器の口縁部の文様に刺突文、押引文、沈線文、隆帯文を施文する土器が出土したとある。この三群土器の隆帯文は「区画文あるいは区画的要素としてのみ用いられる」と述べて、隆起線文土器(轟式)から区画文土器(曾畑式)への移行期に位置できるもの、前曾畑式土器としての特徴をもつとしている。
 深掘第三群土器の特徴を曾畑以前に編年するための前提として轟B式土器の形式設定が必要であることに留意した渡辺康行は、ここで轟式土器の基本形態について考察を述べている。渡辺によると轟式土器研究の基礎は貝殻条痕文+隆帯文であり、この基礎のうえに、一〜三種に分類する。一種は口縁部に複数の隆線文を横走させ、原則として他の技法を併用しない。二種は隆帯文を横走、縦走、斜走させ、これを組み合わせて文様を構成させる。二種の土器に胴部屈折するものが加わる。三種は隆帯文が刺突文、押引文、沈線文と交替する土器で、深掘第三群土器はこの轟式の三種に相当するものと推測できる。ここで渡辺の研究はこれまで概念的な轟B式土器の変化を形式にかえ、資料によって説明していることで分かりやすい解説となっている。
 さて深掘九層出土の、深掘三群土器の特徴である隆起線文(轟式)との交替を、刺突文、押引文、沈線文など幾何学的図形の変遷の上でとらえ、これらを区画文とし、曾畑式文様の発掘の基礎としている。この納得のゆく「前曾畑式土器論」の展開図式は、九州の縄文前期土器の発展をより分かりやすくしてくれた。さらにこの前期土器、轟、曾畑式をつなぐ深掘三群土器によって変遷が明らかとなり、韓国先史時代の櫛文土器との交流研究にも寄与するものと考えられる。今後このような遺跡の類例がふえることによって縄文前期の土器が一層鮮明になるものと期待できる。


二、活発化する海浜文化
煮沸の器、丸底の土器
 縄文式土器はその出現期から最後まで一貫して煮沸用の深鉢が主流であった。煮沸としての機能を果たすためには土器の形が重視される。このことを分かりやすく研究したのは名古屋大学教授渡辺誠である。土器の形は煮沸の機能を高める手段として製作されるが、それには縄文時代の環境とそれに拘束された生業とが深く関わりをもっている。
 縄文時代は後氷河期の温暖化によって韓国と九州の陸の道が消え、対馬海峡が堰をきって日本湖に流れこんだ。暖流の進入によって形成された日本海沿岸は冬の季節風の影響を受け豪雪地帯にかわった。対馬暖流によって気候、環境は徐々に変化し縄文前期になると温暖化はピークをむかえることになった。既に落葉樹林は後退し、豊かな照葉樹林に覆われた陸地での生業は、植物質の採集活動が主になった。食物の堅果(ドングリ)に含まれる豊富な澱粉を加食するためには果実に含まれるアク抜きのため加熱が必要であった。その機能を果たすのが丸底尾の深鉢形土器である。この加熱処理を必須とするドングリとその加工などについては渡辺が長年にわたって研究した成果がある。
 渡辺誠の研究によれば、ドングリを加食するためのアク抜き技術はドングリの種類によって違った方法がとられる。煮沸を繰り返すだけでよいもの。煮沸と水晒しを繰返し行わねばならないものなどがある。食材には粒のまま食べる。粉食にするなどの方法があってかなりの手間がかかるが、食料として豊富に採集できることからドングリは縄文時代の重要な食料となった。丸底の土器は煮沸や水晒しには機能的に最良の道具であり広く日本全土に普及した。
 韓国では新石器時代早期の鰲山里遺跡からドングリが出土して、6000年以前に食料としていたことがわかる。長崎県では西彼杵郡多良見町伊木力遺跡から花粉分析によりシイ属、カシ属などが優先する照葉樹林が存在していたこと、イチイガシ、アラガシ、アカガシなどの果実が出土し、縄文時代の生活が採集を主としてことを示す材料となっている。さらに長崎県の各地に散在する縄文時代の遺跡からドングリの貯蔵穴がみつかり、対馬の樫ぼのは近代まで大量のドングリ貯蔵施設があることで知られている。
 ドングリのアク抜きの方法としての煮沸に適した土器は深鉢形尖底、丸底の土器がその機能を果たす最良の形である。韓国南岸、長崎県の沿岸、島嶼に分布する韓国先史時代土器、縄文時代早・前期土器のうち深鉢形土器は尖底、丸底が多い。とくに韓国の櫛文土器、九州西北部の轟、曾畑系統の前期土器は煮沸の機能を高める丸底の土器として評価されている。


曾畑式土器と櫛文土器の研究
 曾畑式土器は大正14年(1925年)中山平次郎(「肥後国宇土郡荘園村岩古層字曾畑貝塚の土器」『考古学雑誌』八巻五号 1925)によって紹介され、小林久雄(『肥後縄文土器の概要』1937)によって細線刻文(櫛目文)を刻む縄文前期土器として「曾畑式土器」という呼び名で学史に残された。  中山平次郎は曾畑貝塚出土の土器について、拓本を添え「箆書の横又は斜の平行線文様を示したもので、文線も少し細かく、また粗闊で多少の疑い有るが、文様がいかにも豪放で直線的と歟(か)幾何学的と歟称すべき部類ではあるが、弥生式土器文様とは異なって自ら一風を為している。これらはむしろ一種の貝塚文様と認めたいように感ずる」と述べている。当時西日本の縄文土器の研究は盛んではなかったが、中山が貝塚土器(縄文土器)に幾何学文の名を用いているのは興味深い。中山の研究以来曾畑式土器は九州の特徴ある土器として研究が進められてきた。特に昭和34年(1959)の慶応大学教授江坂輝弥の発掘は解明についての成果を上げた。これまで曾畑式土器研究の主なものを上げるとつぎのごとくなる。
 曾畑式土器は縄文前期のかなり長い間にわたって使用された土器で、時代の幅、経過について細かく分類されている。その主なものは
 杉村彰一の分類
 (一期西唐津海底、二期曾畑貝塚、三期鹿児島県日勝山)
 江坂輝弥の分類
 (一期唐津海底出土の細沈線文、刺突文、二期西唐津海底出土土器、三期曾畑貝塚出土土器)
で、どちらかというと土器の文様による分類であるが、江坂は西唐津海底出土の土器を曾畑式一として区画文土器(曾畑式)とわけている点に興味がある。これらの分類を踏まえ最近の資料を扱い、田中良之は次の如く分類している。
一期 福江市江湖貝塚をあて、口縁部刺突文、下に平行沈線文を配置し、胴部以下には幾何学文を配置する。
二期 佐賀県小城郡竜王遺跡下層出土の土器を当て、口縁部の刺突文が焼失して平行沈線文が口縁部文様となる。胴部文様には組帯文や羽状文が主に用いられる。曾畑貝塚出土の土器はこの二期に相当する。 三期「くずれ曾畑」ともいわれ、施文具が二本単位のものに転換し区画文の様子が失われるもの。並木式への移行がみられ、前期終末の土器である。
この田中の分類をふくめて、一期は西北九州にかたより、次第に南へ向かい、沖縄県渡具知東原(とぐちあがりばる)遺跡にいたっている。また曾畑式土器の特徴である胎土に滑石混入の土器は、中九州以南の三期にはみられないとしている。
いずれも注目に値する研究であるが、ここで曾畑式土器の定義というか、典型的曾畑式土器の姿を学習しておきたい。曾畑式土器は胎土に滑石をいれて丸底の深鉢形に作られる。口縁部に複数の刺突文を施し、次に複数の沈線による区画文を施して内部に充填文として幾何学文様をもって構成するバリエーションに富んだ土器を典型的土器としておきたい。そうすることによってこれまで伝えられてきた韓国の櫛文土器との分別のかなり可能になる。その典型的土器をほぼ単純に出土するのが福江市江湖貝塚である。


福江市江湖貝塚の発掘
 日本の縄文式土器で強い地域性をあらわすのは、前期の曾畑式土器である。土器の表面に縄文原体をころがして施文する縄文のかわりに、櫛歯又はヘラ状の施文具、貝歯のような工具で土器の表面に幾何学的文様が施されている。この幾何学的文様は区画配分された定形的図案によって形成されている。その基礎的区画配置によって定形化した文様を配分して幾何学的文様をもつ土器を仮に典型的曾畑式という名をつけると、坂田邦洋の折帯文(区画文)を挟んで上下に施文する文様の組み立てによる幾何文、水ノ江和同の区画充填施文法による幾何文等が注目される。
 さて最近曾畑式土器の分類については形式を三分類して議論が行われ、それぞれ一致点を見出だすことができるようになった。中でも水ノ江和同の分類方法に「区画としての割り付け法」(区画充填施文法)に画期を求める分類法が注目されている。曾畑式土器の編年についてはまだ議論の余地がないわけではないが、坂田、水ノ江の意見を中心に長崎県における曾畑式土器にしぼってみてゆきたい。
 長崎県の縄文前期土器のうち典型的曾畑式土器を出土し、注目すべき遺跡として五島列島福江市大津町字江湖貝塚がある。江湖貝塚は昭和44年(1969)、坂田邦洋によって調査された渚線に近い海底の貝塚遺跡である。出土した土器はほぼ一枚の貝層からのもので曾畑式土器の単純遺跡である。曾畑式土器は胎土、器形、文様、施文具など詳細に検討され、詳細な実測によって分類されている。以下は坂田の『曾畑式土器に関する研究』江湖貝塚(1973)による。
 まず江湖遺跡出土の曾畑式土器は胎土に100パーセント近く骨材として滑石が混ざっていた。その一例をノレルコX線回析装置によって分析している。その結果、骨材は滑石が多く、一部に緑泥石、雲母が混ざっていた。器形は鉢形で、口縁は平縁と波状からなり、大きく外反したり、肥厚するものはなくほぼ直口し、やや膨らみのある胴部から丸底に移行する。製作は輪積によって底部から積み上げる方法がとられたと観察されている。
 文様の特徴として、口縁部に横位の刺突文を二〜三列を施し、さらに複数の凹線を区画文として数段配列する。区画文のかなに細い沈線で整然と幾何状の文様が施文されている。文様は口縁部から丸底の縁端まですべて施文の対象となっている。これらの文様には貝殻(土器の裏面に条痕文)を使用するが、主文様は櫛歯状の多歯具ではなく単歯具または一本の棒と思われる工具で幾何的文様を施していると述べている。
 江湖貝塚遺跡は浅い海底遺跡で、もとは入江に面した砂丘の上の遺跡であったようであるが、現在は浅い海底下、転礫の下部の貝塚である。貝層は単純層で曾畑式土器のみであったから、ここでの土器の形式分類は典型的曾畑式を意味し、測定年代の信憑性が高い。


多良見町伊木力遺跡の発掘
 典型的曾畑式土器を出土し注目すべきもう一つの遺跡は大村湾南部、西彼杵郡多良見町船津郷松手にある伊木力遺跡である。この遺跡は縄文前期を中心とする大村湾岸全域の古環境にふれ、生活環境を子細に検討した遺跡として注目される。調査は同志社大学考古学研究室(代表森浩一)により昭和59・60年(1984・85)に実施された。遺跡は大村湾の南部に波状に延びた津水湾の入口近くの西側、伊木力川の浸食谷河口部分に広がる小さな沖積部の山際に位置している。ここに縄文前期曾畑式土器を中心とする遺跡がある。
 調査は凝灰岩角礫層の基盤の上に堆積された環境の違った地層を最上層の砂層を除いて10層に分類して調査が行われた。その堆積各層ごとに珪藻化石群分析を行い各層別に古環境を調査し、内湾性の状態を中心として環境の時代変化を割り出している。七・八層に集中して出土する曾畑式土器中心の縄文前期層の環境も正確に証明されている。六〜10層の堆積時代の遺跡周辺は内海性の時期で、その時期の植生についてはクヌギ・イヌガヤ・ヤブツバキ・エゴノキ・アカガシ・シイなどがあたりを覆う照葉樹林の世界であったとの結果をだしている。
 縄文前期は韓国南東部において櫛文土器の盛期にあたり、この時期にみられる多島化現象は伊木力遺跡における古環境の調査と対応して考えることができよう。例えば学史的にもっとも著明な釜山東三洞貝塚の立地はその環境が伊木力遺跡の古環境によってかなり理解できるからである。
 伊木力遺跡の七・八層は縄文前期曾畑式土器を主体に包含する層でここから出土した土器については水ノ江和同、川崎保の両氏によって詳しく分類されている。10層出土の土器は一群に分類され、層位関係から縄文早期とされる。その特徴に押引文状刺突文などの土器、二〜三本単位の原体施文と考えられる線刻文、胎土に滑石を含み丸底と考えられる土器等があげられる。八層から出土した二群土器は細分されているが轟式土器にみられる細かな条痕が施され、ミミズバレのような「つまみ上げ」隆起線文を特徴としている。さらに細い隆起線文五条を口縁部から胴部にかけて施し、条痕仕上げ丸底の土器が出土している。これらの土器は七層曾畑式土器と轟式土器の中間様式とみるべきであろうか。
 七層出土の土器は、三群土器としてまとめられ、さらに五類に細分している。七層は曾畑式土器の単純層であるから、ここでの型式細分は曾畑式土器の様式分類には説得力をもつ。
一、刺突文帯と区画文を組み合わせ、これをA〜Cにわけて分類する。
二、口縁部、胴部、底部の三部分の大きな文様によって構成される。
三、横位の沈線文に二本単位の山形文が施されるもの。
四、無文丸底の土器。
 これまで多くの研究者によって注目された曾畑式土器様式は主に一、二、三類に集中していたが伊木力遺跡の層位発掘によってかなり様式変化が明らかになったといえる。ここで典型的曾畑式土器は七層出土三群土器一、二類であらわされ、これを福江市江湖貝塚にあわせると曾畑式標式土器とすることができる。


松浦市姫神社遺跡の発掘
 松浦市星鹿町北久保免字宮崎に姫神社遺跡がある。発掘は昭和41年(1966)米国ウィスコンシン大学アルバート・モア、函館市立博物館学芸員吉崎昌一によって行われた。この調査目的は韓国南東部出土の櫛文土器と曾畑式土器の関連、両者の年代測定が主な目的であったことで画期的調査であった。  姫神社遺跡は伊万里湾に面し、星鹿半島御厨漁港を望む位置にあり、標高2メートル、主に神社境内を中心として広がる遺跡である。縄文前期曾畑式土器を出土する遺跡の多くが、渚線近くの海底、海水面下の砂浜から出土しているのに対して、高所に位置していたことで、炉跡、墓抗と思われる遺構がみつかっていることなど良い条件を整えていた。遺物は一万点以上に及んだことからその詳細が待たれる。  遺物の一部は、水ノ江和同他の報告によって知ることができるが、詳細はわからない。報告書によると縄文早期(塞ノ神式土器)をはじめ、轟式土器、曾畑式土器など縄文前期土器を挟んで中期の土器を出土しているので、層位の確認のもとで調査がすすめられたものと思われる。曾畑式土器は伊木力遺跡第三群三類の横位の沈線文に二本単位の山形文を施す土器が中心である。姫神社貝塚出土の轟、曾畑式土器については出土土器の全容が行われるまで問題を後にのばしておきたい。


佐世保市下本山岩陰の発掘
 下本山遺跡は佐世保市下本山町字迎野、標高185メートルの愛宕山の裾、標高16メートルの位置にある。岩陰は河川によってできた侵蝕崖で、相浦川の支流本山川に接し現在の海岸線から4キロ離れたところにある。昭和45年(1970)二期にわたり麻生優によって発掘され、調査後報告書『下本山岩陰』が出版されている。それによると層位の点検を行いながら発掘をすすめ、縄文晩期から後期(鐘崎式土器)中期(阿高式、船元式)土器を一、二層で確認し、貝層と灰層の互層からなる三層から曾畑式土器を主体とする前期土器が出土している。最下層は轟式土器を包含しており、縄文各時期の遺物を注意深く発掘している。
 轟式土器は細かく分類することなく一括しているが細目の貝殻条痕が表裏に施され、一部にミミズバレ状の細隆起線文が施され、隆起線に刻み目のあるのが認められる。一括して轟B式土器とみてよい。この層の落石側面を利用して埋葬された二体の人骨がみつかった。一号は男性の壮年、二号は女性の熟年でともに仰臥屈葬の姿勢で埋葬されていた。
 さて、三層から曾畑式土器が総数で1084点出土しており、一部に列点文を口縁部に施し、区画文と幾何学文を施文する典型的曾畑式土器がふくまれるが、大部分は口縁部に弧状の隆線文を施す土器である。この土器を伊木力遺跡の分類にあてると第三群三類に相当する。この二種類の土器は層位的に分離できそうであったとしているから今後曾畑式土器の編年研究に役立つものと思う。
 岩陰からは大量の魚貝類が出土し、当時の魚、動物相についても層ごとに分類し、大量の石器、骨角器の出土も整理されている。その中で石銛や骨製の釣針、特につぐめのはな型石銛、結合釣針の出土が注目を引く。内海に面した近海に進入する回遊魚に供えた漁具とみることができる。


北部海岸に集中する曾畑式土器
 曾畑式土器は韓国にもっとも近い対馬では少なく、海峡を挟んで真正面に位置する上県郡上県町久原夫婦石遺跡(渚線内側から海底)他数ヶ所である。壱岐でも勝本町本宮南触字松崎遺跡(渚線)で注目されているが分布に乏しい。
 対馬、壱岐に対して五島列島各地の海岸では渚線を挟んで曾畑式土器の出土地は広い。列島の北から宇久町宮ノ首遺跡(渚線内側砂浜)、小値賀町野崎島野首遺跡(渚線内側砂浜)、中通島新魚目町西ノ股遺跡(渚線内側砂浜)、有川町頭ヶ島浜泊遺跡(海岸近く斜面)、福江市堂崎遺跡(海岸砂丘)、福江市江湖貝塚(海底)が並ぶ。五島列島のこれら縄文前期遺跡のなかの野首遺跡や頭ヶ島白浜遺跡から赤色顔料塗彩と思われる土器片がみつかり、韓国煙臺島(ヨンデド)や凡方(ポンパン)遺跡12層土器に対比される。凡方12層出土土器は並行沈線を施し、その間を細かい縦線でつなぎ赤色顔料を塗彩している。この対比資料に限って土器の胎土、焼きしまりなど全て同じであるから、韓国から持ち込まれた土器とみて間違いないだろう。
 長崎県本土では、多良見町伊木力遺跡(渚線内側砂浜)をはじめ野母崎町菖蒲川(しょうぶごう)遺跡(海底)、脇岬遺跡(海底)、佐世保市下本山岩陰(沖積平地奥)松浦市姫神社遺跡(海岸線内側)などが東シナ海に面して分布している。これを広い視野でみると長崎本島から五島列島にかけての範囲に曾畑式土器が広がりをみせて、韓国の櫛文土器との関係を重視するかのように対峙している。
 韓国西部の櫛文土器の中で曾畑式土器と対比できるのは南部の釜山市東三洞貝塚やヨンソンドン遺跡及び凡方貝塚など釜山市周辺に集中している。櫛文土器は同じ丸底の鉢形であるが、一般に胎土の骨材に滑石の混入がみられない。また波状口縁、口唇部の刻文、土器表裏に貝殻条痕などもない、また文様においても押引文、魚骨文が主体となり、典型的曾畑式土器にみられる区画充填施文は希有である。このように櫛文土器と曾畑式土器には相違があることがわかる。しかし丸底深鉢形の器形、幾何学的な文様などの特徴、年代の一致などからみて「交流の土器」とみて間違いない。
 ここで曾畑式土器が対馬、壱岐に対して五島列島に広く分布しているということ、さらに櫛文土器との交流が明らかであることを考えると、韓国南部、五島列島の線、新しい交流の道として海流回遊の再点検、韓国南岸、五島列島両方の遺物の再点検などが必要であり、加えて漁業に関する民俗学的研究がまたれる。
 韓国の隆起文土器に次ぐ土器はヨンソンドン一式である。対馬夫婦石遺跡出土のなかに櫛文土器とヨンソンドン二式土器があるという報告は韓国土器の交流を意味し、慶尚南道欲知島遺跡発見の区画文土器の発見は曾畑式土器の影響があったことを否定できない。これまでにおこなわれた放射性炭素年代測定によると彼我の年代はほぼ同時である。五島頭ヶ島白浜遺跡、野首遺跡の赤色顔料塗彩の土器を釜山凡方遺跡の櫛文土器と考えると、彼我の交流は色濃く証明されたことになる。


曾畑式土器と櫛文土器
 日・韓、海を渡る交流の問題で、縄文前期土器と櫛文土器について画期的調査がこれまで何度も行われた。その中で1965年の福江市江湖貝塚の発掘、1984・85年の多良見伊木力遺跡の発掘、1991年の釜山市凡方遺跡の発掘は重要であった。
 江湖貝塚は典型的曾畑式土器の単純遺跡であったことで明らかな形式設定ができ、研究の発展に大きく寄与することになった。伊木力遺跡では学際的に層位観察をおこなうことができる遺跡であり、曾畑式土器の分類にとって緻密な検討を加え、さらに一歩積み上げたことになった。この二つの長崎県における発掘によって曾畑式土器の典型的姿が明らかとなり、分類を可能にした。これに対して凡方遺跡の発掘は韓国櫛文土器の層位的調査によって櫛文土器の先後関係を充分に観察し整理して検討されている。この日・韓における最近の発掘で轟、曾畑式土器と櫛文土器の対比がより鮮明になった。
 伊木力遺跡は10層に分類、凡方貝塚は13層に分類し、総合的に判断をくだしている。ここで二つの遺跡の詳細を述べる余裕はないが、曾畑式土器と櫛文土器の両者の関係をこの二遺跡からみてみることにする。これまで曾畑式土器、櫛文土器の両者を兄弟の関係において考察した研究は多い。しかし曾畑式土器の基本的文様構成は、口縁に刺突文、つぎに複数の沈線文による区画文、区画内の充填文であり、水ノ江和同の区画としての割り付けを基本にしている。水ノ江は伊木力遺跡七層から出土した曾畑式土器を胎土、製作技術、土器形式、文様構成などすべてを分析して土器の分類を行い形式論を組み立てている。そのことを踏まえて凡方貝塚出土土器を見てみると曾畑式土器の基本とする「区画としての割り付け」をしているものはみあたらない。胎土に滑石のみられるもの、土器形式においても異なる。文様については六層出土の一部口縁部に一〜二線を縦に配置して区画文とし、左右に綾杉状の文様を入れる土器がある。これを区画文とすることに異論はないが希有な例である。曾畑式土器と櫛文土器の関係が強いとされるヨンサンドン遺跡でも区画充填施文法は見当たらない。
 凡方貝塚の大きな成果は、鰲山里遺跡出土の隆起文土器が海峡を越えて対馬腰高遺跡に到着した経緯を13層〜六層出土の土器で充分説明してくれたこと、12層出土櫛文土器と五島列島に赤色塗彩の土器を搬入させたことによって、彼我の交流を確実なものにした点である。そしてわずかであるが、曾畑式土器の「区画充填施文」が韓国南部で出土したとしたら曾畑式土器はより深い関係となった。
 曾畑式土器が韓国南岸の櫛文土器を祖形としたか、また轟式土器を祖型とする曾畑式土器の出現の問題研究もすすめなければならない。このことについての日・韓両国学者による真摯な研究の深まりを期待したい。


櫛文土器の研究と年代
 日本で櫛文土器(有文土器)の研究は鳥居龍蔵による「平安南道、黄海道古蹟調査報告」(『朝鮮総督府大正五年度古蹟調査報告』1917)にはじまり、ついで藤田亮策の「櫛文土器の分布について」(『青丘学叢』二、1930)において櫛目文土器という呼称をもちいることになった。櫛文土器については、幾何学文的土器(鳥居龍蔵)、条線文(浜田耕作)、幾何(学)文土器(金廷鶴)、櫛文土器(任考宰)などに変遷があった。
 曾畑式土器と櫛文土器の関係について述べた研究は多いが古くは横山将三郎の「釜山絶影島東三道貝塚調査報告」、最近では任考宰による「韓国櫛文土器の展開」(『末廬国』昭和57年、1982)、木村幾多郎『交易のはじまり』(『考古学による日本歴史』平成9年(1997))などが興味深い。
 櫛文土器と曾畑式土器の放射性炭素年代はつぎのように測定されている。
 釜山東三洞貝塚     5820年±120年BP  坂田邦洋
 釜山東三洞貝塚     5180年±125年BP  江坂輝弥
 釜山凡方貝塚      4590年±70年BP   釜山広域市立博物館
 福江市江湖貝塚     5310年±40年BP   坂田邦洋
 宇土市曾畑貝塚     5190年±130年BP  江坂輝弥
 多良見町伊木力貝塚   5930年±30年BP   同志社大学
測定結果に大きなバラつきはなく、ほぼ同じ時代の土器と考えてよい。


三、前期社会の推移
回遊するクジラを追って
 長崎県は、半島、岬、そして離島が多く、海岸線の総延長は前述の如く4165キロに及ぶ。その中で離島の総面積は県土の44・8パーセントを占めるといわれ、まさに半島と岬、離島からなっているといってよい。半島と内海、出入りの多い本土と離島は後氷期の温暖化にともなう海進現象によってできたと考えられる。そのピークは縄文時代の前期であったといわれる。半島と島からなる自然環境が長崎県の先史時代を理解するキーワードと言ったのは正林護(『長崎県の考古学』平成7年)である。現在でも長崎県は海洋と関係なしには何も語れない。まさに海洋のクニという表現がぴったりである。
 この多島海の状況は、対馬の対岸韓国南岸の様子と同じで、両者は対馬、リマン海流が岸を洗い、盛んな回遊魚地帯で、海棲哺乳類イルカやナガスクジラなどの回遊するところである。また海に洗われた岩礁性海岸近くは遊泳層が比較的浅いマダイやスズキなどが生息し、外洋にかけてはブリ、マグロ、サメ、カジキなどの大形魚類の遊泳するところである。魚類とともに生きる生活文化は海流と多島海によって育成され、漁業の歴史は古い。
 長崎県の縄文時代遺跡は海岸地帯に多く、クジラの骨が発見された遺跡は対馬の峰町佐賀貝塚、五島福江市白浜貝塚(クジラの肋骨を加工したアワビ起こしの道具)など多くの遺跡から出土している。本土では北松浦郡田平町つぐめのはな遺跡、長崎半島野母崎町脇岬遺跡などから出土しその数も多い。またクジラの脊椎骨をスタンプする土器底部(脊椎骨を台にして土器を製作したと思われるもの)が対馬佐賀貝塚や五島小値賀町野首遺跡などから多くみつかっている。対馬暖流にのって回遊する大形哺乳動物が漁撈活動の主目的であったことがクジラの遺骸出土から推察できる。
 海流の洗う半島と島、海岸のクニ長崎の漁撈について興味深い資料を残してくれた五島福江市白浜貝塚がある。クジラの肋骨で作ったアワビ起こしのほか、サメ歯を利用して加工された牙鏃、サメ歯利用の垂れ飾り(耳輪)、タマキガイを利用した貝輪(腕輪)などの出土がそれである。このような魚類依存の生活の資料は縄文中期以後急速に増加している。
 縄文前期の海峡で繰り広げられた漁撈活動はどのようなものであったかそれは興味深い課題である。縄文前期の漁具で出土例の多いのは石銛である。石銛については橘昌信の「西北九州における縄文時代の石器研究」二(『史学論叢』10号 昭和54年、1979)に詳しく述べられている。その冒頭に銛について述べている。一般に柄をもちいたもので獲物に突き刺すもの、先端と柄が離脱するものにわけている。ここでは柄がどのように固着され、そのように使用されていたか、また捕獲対象がいま一つ明らかでないので単に「石銛」とよんでいる。
 北松浦郡田平町つぐめのはな遺跡から多くの石銛が出土している。ここから出土した石銛は洋上で海棲動物、大形魚類の刺突具としての機能を果たした石器として、その蝮形の特異な形から「つぐめのはな式石銛」として一括し、これを縄文前期の漁撈具の特徴とみたい。


つぐめのはな式石銛
 つぐめのはな遺跡は、北松浦郡田平町野田免にある。九州西北端、平戸市と田平町の間、狭い水道(平戸瀬戸)に面し、岩礁性の海岸はそこから外洋に向かっている。そこに玄武岩の露出した急斜面地帯に「つぐめのはな」という岩礁が張り出している。
 ここの岩礁に基部にあたり玄武岩の崖と岩礁のわずか20メートルばかりの間に遺跡がある。遺跡は昭和46年9衙つ、正林護、馬場哲良によって調査が行われ、縄文早期末(塞ノ神式土器)、前期初頭(轟式土器)の土器ととともに大量の石銛が出土している。調査後に「つぐめのはな遺跡」『長崎県文化財調査報告書』82集(昭和61年、1986)が刊行され、それによって遺跡の様子が詳細にわかるようになった。
 遺跡は0層から7層に分けて調査され、各層から土器、石器の出土がみられた。中でも3〜7層(3〜5層…轟B式、6、7層…塞ノ神式)からまとまった遺物がみつかっている。石器は、狩猟、漁撈生活など当時の活動が特定できる道具で貴重な遺物であった。報告書では石器について詳細な分類をおこない、縄文早期末から前期にかけての漁撈について示唆するところが大であった。
 打製石器は総数81点で石鏃の98点とともにつぐめのはな遺跡を特徴づける遺物となっている。石銛は3層から7層に多く、縄文早期末から前期初頭(6500〜5500年前)にかけての石器とみられる。石銛は詳細な実測図を製作し、遺跡の実態から単一文化層としてまとまりのある6層を重視して分類をおこなっている。分類の特徴は機能的分やを重視し、一類から四類に分け、さらに各類を特徴によって細分し、分かり易く説明している。
 石銛の石材は安山岩が目立ち、原石から横剥ぎの技法で剥離した大形の剥片を使用している。銛は大形刺突具の機能をはたすために製作された道具であるとし、その形から有茎蝮頭形石銛(蝮の頭形・一類)としている。蝮頭形石銛はクジラ、イルカなどの大形海獣捕獲の道具に使用された銛先と考えている。この石銛の使用は現代「寄せ鯨」の捕獲に使用する銛漁法に似ているように思われる。
 つぐめのはな遺跡の3層〜7層まで石銛と同時に安山岩の大形不定形削器(解体用のナイフと考えられる道具)が多く出土している。この石器はクジラの解体用の道具と考えると都合がよい。
 さてつぐめのはな遺跡の石銛に関係のある話として、前述の橘昌信の研究にハエ崎の古老の興味ある話を載せている。
「ハエ崎(つぐめのはな遺跡の北に隣接する)の海岸にはタマリ小屋(鯨納屋)があったこと、崖上には小さな鯨見張り小屋があったこと、平戸島の中崎と平戸瀬戸の南入り口の二ケ所にもタマリがあって、この三ケ所協同で、クジラを見張り、捕獲し、解体していたこと。4・5月にはクジラ取りの季節で、鉄砲打ち、ハダシ(銛打ち)、ノリコ(乗組員)がタマリに待機し、旗とノロシを合図に平戸瀬戸を南から回遊するナガスクジラとの格闘が始まった」と記している。
 橘は60点以上の発掘資料と150点をこえる表面採集の石銛について調べ、詳細な分類をしている。まず石銛の材料となっている安山岩(サヌカイト)は佐賀県多久市、小城町鼻山、北松浦半島、大村湾に求め、黒曜石については佐賀県伊万里市腰岳、松浦市星鹿半島などの良質の原石を用いているとしている。つぎに石銛の分類は発掘の層位を参考にし、まず形態的分類を行い、a1〜eまでの八形式に分類し、加工の上から、一 石器の表裏とも全面に加工しているもの(a1、a2類)、二 周辺のみに加工が集中し、主要剥離面や大剥離面を中央近くに残すもの(b類、b2類)、三 主に片面にのみ加工が認められるもの(d1類)などに分けている。つぎに類別されたそれぞれの石銛の分布にも触れ(a1類)は福岡県遠賀郡芦屋町山鹿貝塚を東限とし、玄界灘に浮かぶ沖ノ島遺跡、東シナ海を背負う小値賀町船瀬遺跡等広く海岸に広がりをもっていることに注意している。これらの遺跡は縄文前期轟式土器を出土し、比較的早い時代の石銛と考えることができる。
 蝮の頭形石銛(つぐめのはな式石銛)が縄文前期の前葉から外洋に広がりをもつ漁具として海棲動物の捕獲に用いられていた可能性がつぐめのはな遺跡の発掘によって明らかとなった。このことと、北松浦地方から五島列島の広い範囲に渡って繰り広げられ、今もなお、イルカの大群の追い込み、寄せ鯨、小値賀島の捕鯨の雄姿が縄文時代前期にさかのぼって証明したことは研究成果として評価できる。


結合釣針の問題
 昭和41年(1966)からはじまった西彼杵郡野母崎町脇岬遺跡の発掘で縄文後期の貝塚から数多くの骨角器が発掘された。そのうち漁具には単式釣針・固定銛・離頭銛・ヤス・骨鏃・骨箆など各種の漁撈具がみつかった。さらにクジラ、イルカをはじめ現在東シナ海を舞台に棲息する魚類の多くの遺骨が出土した。漁撈具と魚骨の出土から、石銛・石槍・ヤスなどの突く漁法、石錘を用いる網漁法、釣針を使用した釣り漁法などを考えることができた。その中で結合釣針が注目された。
 結合釣針は軸と針部を別々に作って結合する釣針であるが、当時は珍しい出土であった。この釣針は韓国釜山市東三洞貝塚から櫛文土器にともなって出土したものが知られていただけであった。報告者の横山将三郎は有鈎(針部)と無鈎(軸)に分けている。針部には鈎があって根元に刻目があり、この根元に木片を緊縛していたとしてかってアメリカ西北部に住む漁民の結合釣針を図示して説明している。横山の報告の図版からみると有鈎はカカリのある針部で、無鈎としたものは軸部で両者を結合すればよい。脇岬出土の結合釣針の針部と軸部は東三洞の鈎の有るものと鈎のないものと同じであった。脇岬遺跡では大きなものは針部も軸部も8センチに及び、軸頂端部は釣糸がかかるように突起部をつくりだしている。
 1981〜83年韓国東部江原道襄陽郡鰲山里遺跡の発掘で47点の結合釣針の軸部と加工途上品がみつかった。この鰲山里型結合釣針については渡辺誠の詳しい研究がある。それによると軸の材質は頁岩で、長い「し」字状、接合面は平坦、軸頂部一本の溝が一周すると述べている。針部は骨製品であったと思われるが遺跡が砂丘に立地しているためみつかっていない。釣針軸部は第5層(第一文化層)に最も多く、櫛文土器以前の韓国最古の土器、隆起文土器を主体としている。その放射性炭素年代は紀元前6000〜4500年にあたる。この頁岩を材質とする結合釣針の軸部はその後、勧告の南岸一帯の早期から前期櫛文土器を出す遺跡から数多く出土している。釜山市凡方貝塚では多くの結合釣針が出土し、他の遺跡出土と併せて詳しく分類している。特に『凡方貝塚』二、の表紙には12層と7層出土の軸部と針部を結合させる写真を載せて結合の状態をあらわしている。
 さて、鰲山里型結合釣針の石の軸部と骨角を材料にしたと思われる針部の接合は実用にさいして機能的であったろうか、という疑問がある。渡辺誠は江坂輝弥所蔵のソロモン諸島レンネル島の結合釣針(軸は真珠貝、針はベッコウ製、軸の長さ6センチ)をレントゲン写真で撮影しているが、軸と針部の結束は堅く緊縛しているほか分からない。さらに10センチ近い大形の釣針もあり、対象となる魚類は何であったろうかとの疑問も断ち切れない。最も古い韓国鰲山里型釣針の出土地から魚骨の出土がなく、対象魚がわからない。脇岬遺跡では西北九州型結合釣針とともに魚骨が多く出土した。このうち坂田邦洋はマダイ151個体とクロダイ33個体の体長、体重を測定し、マダイの平均体長は594ミリ、体重2772グラムであり、クロダイは体長479ミリ、体重1272グラムで大形であったとしている。結合釣針の結合部からみてブリ、マグロ、カジキなどの釣具には無理とおもわれ、比較的浅い層を遊泳するタイ、スズキなどを対象にしたものと考えることができる。また石を軸部に使うとすればその効用、役割(重しとしての役割)も考えねばならない。結合釣針の機能的役割についての研究がまたれる。
 長崎県をはじめ九州の北部が居ように面した遺跡出土の結合釣針は西北九州型といわれ、軸部、針部ともに骨角で作られている。わずかに唐津市菜畑遺跡から縄文前期の釣針が一例出土しているが、他は縄文後期以降に集中している。また軸が石製の鰲山里型は山崎純男の調査で明らかにされた熊本県本渡市大矢遺跡から一点出土しているが、これも縄文後期の釣針である。朝鮮半島南東部に発し、西北九州に達した鰲山里型結合釣針と縄文後期以降に集中する西北九州型結合釣針についての関係、展開については両者の時代を考慮した研究が必要であると思う。