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神大野宿禰について

『肥前国風土記』に登場する「神大野宿禰」について、ネット上で考察しているサイトがない。肥後の歴史とも関わりがあるかと思われる。これは、現代の長崎県側と熊本県側が土地が離れているのに同じ「ヒノクニ」なのとも関係があるのではなと私は思っている。
私はたいへん重要だと思うので、以下の文章を『高来郡の歴史』よりのせさせてもらいました。

「古代豪族大野氏に対する考察」吉田安弘

一、「肥前風土記」と大野宿弥について
 景行天皇の九州巡幸記に於ける「高来」の記は、「日本書紀」「肥前風土記」に記述されて、主人公景行天皇の活躍の舞台と、その道筋は共に「玉名」「高来」と地名、場所はいずれも同じであるが、巡幸の道筋は「書紀」「風土記」では全く逆になっている。
「日本書紀」では、
「…六月の辛西の朔発亥に 高来縣より玉杵名邑に渡りたまふ 時に其の処の土蜘蛛津煩というを殺す 丙子に阿蘇国に到りたまふ…」とあって、島原半島では景行天皇の高来縣から、玉杵名邑への出発点は、口之津町宮崎鼻からと言う伝説がある。
「肥前風土記」では、
「高来郡 昔者 纏向の日代の宮の御宇(あめのしたしろ)しめしし天皇肥後の国玉名の郡の長渚の浜の行宮に在して、此の郡の山を覧まして のたまひしく『彼の山の形は 別(はな)れ島に似たり 陸に届ける山か 別れいる島か 朕知らまく欲(おも)ふ』とのりたまひき 仍ち 神 大野宿弥に勒(おほ)せて看ましたまひしかば 此の郡に到りき 爰に人あり 迎へ来ていひしく『僕はこの山の神 名は高来津座とまをす 天皇のみ使の来ますことを聞きて迎え奉らくのみ』とまおしき 因りて高来の郡という」とある。
「風土記」では、玉名から天皇の御使いとして、大野宿弥なる神が島原半島に上陸した。
 その上陸した地点は、有明町の「大野ヶ浜」と言う海岸で、その場所は大野宿弥にちなんだ地名として知られている。
「大野ヶ浜」の海岸は、有明海をはさんで、熊本県長渚町の正面に位置し、その距離も最短離にある。
「書紀」「風土記」の景行記は、何れも史実としては受けとれにくいが、有明海の沿岸一帯に大野氏と言う古代豪族がいた事実は否定できない。
 大野宿弥が出発した玉名郡長渚町附近と、有明海を渡って到着した島原半島の有明町一帯に、特に景行天皇と大野宿弥の伝承が多く遺っている。
 宿弥の尊称について、東海大学教授阿部武彦氏は、宿弥は天武朝に制定された八色の姓の一つであるが、大化前にも人名の下にそえられて人名として用いられている。
「釈日本紀」には
「私記日、昔稱皇子大兄 又稱近臣為小兄也。宿弥之義。取於少兄。或説、帝王相親、…」とあり、その起源を説いている。大化前代の宿弥については、五世紀中葉前後から六世紀末の敏達朝頃までにみられる宿弥を含む人名は、ほぼ実在の人名と考えられ、そして宿弥を含む人名の後裔氏族の姓は、君、直その他にもみられるが、その分布数は少なく、多いのは臣、連の姓をもつものである。即ち臣、連姓を有する人名、または祖にあたる人名に特に宿弥が含まれている。
 又、「宿弥の史的意表—記紀の批判と通して」を執筆された渡辺直彦氏は、
「宿弥称者は、恐らく外戚の臣として大和朝廷に皇姫をいれた『宿老』『宿臣』と言う大豪族で、地域的には主として大和西南部を占居する臣姓大豪族の称言であろう」と言っておられる。何れにしても、大野宿弥は有明海の沿岸一帯を占居した古代の大豪族ではなかったか、そして本来は神姓で「風土記」の神大野宿弥はその一族の先祖であろうと考えられる。
 長崎県史を執筆された竹内理三先生は「古代中世」に、「山の神が名乗る高来津座の高来は、高来、又は高城で高地に構えた城。高来津座は高座と同義語で、高い崖の上に城を構えているという意味で、雲仙岳に居をしめしている神と言う土着神に託したものであろう」と言っておられるが、私は「高来」とは高姓(族)と来(木)姓(族)の合体であり、或は又、松本清張氏の説のように「高来」とは、「コウライ」とも読めるし、各人各様の考え方があるようである。
 そこで「津座」の意は高座と同義語であろうが又、海岸や崖、港に位置する海の土着神にもなるようである。即ち有明海に覇を唱えた古代の有力な航海民の豪族ではなかったか、そして「高来津座」なる人物は、大野宿弥という神、人物そのままの投影ではなかろうかと思えてならない。
 中世の頃、熊本県玉名郡岩崎村(玉名市)には「大野別府」があって紀姓を称した大野氏が支配していたが、嘉元三年(一三〇五)高来郡深江の浦の荘官「安富頼泰」が、この地を譲りうけて支配している。海を挟んで「大野別府」と相対する地は島原半島の有明町から三会町(島原市)に当たる。
 そしてその地一帯は、古代から「大野荘」と呼ばれて、戦国の頃は、大野山城と呼ばれる領主がいた。天文の頃、肥後の菊池武包は大友氏との一戦に敗れて有明海を渡り、大野荘の大野城に身を寄せたが、後にこの地で病没した。肥後の名門、菊池氏も遂に島原半島の大野村で滅亡している。そしてこの地の庄屋出田氏(菊池の旧臣)の系図に依ると、菊池武包の遺児武平は大野城主大野松千代の養子となり、右近将鑑大野武平と称して大野家を嗣いでいる。
 その大野氏が大野宿弥の血脈を伝えているかどうかは、はっきりしないが、現在の有明町は、三之澤村、東空閑村、大野村、湯江村の合併町名で、明治の頃迄、大野村があった。
 その大野村には、大野宿弥が上陸したといわれている大野浜海岸があり、その海岸の山手には、大野浜城の居館跡がある。附近一帯は、鉄道敷設や宅地造成の為、破壊されて地形が全く一編している。その附近は古代の遺跡地で、中田遺跡、妙法塚遺跡が続いている。
 昭和五十八年、考古学研究家古田正義氏によって調査がなされた。古田氏によると、遺跡の大半は破壊されて、充分の研究はえられなかったが、当該地一帯は古代からの聚落地で、壊れた土器や磁器類の生活用具が、瓦礫の層をなしている。時代は古墳期から奈良平安朝と続いている。附近には又、「神木」と言う子字名がある。その他は古代の信仰祭祀の聖地と推察され、現在は「鴨神社」が安置されている。
 昔は、大野浜城居館の崖下迄、汐が入り、大野浜海岸を海路(うじ)口とした港で、海の交易があったように推察される。今日では地形が全く一変して、古代をしのぶよすがもない。
 戦国の頃、大野山城なる領主が拠った大野城は、その地から約一K「甘木」と言う地名の立陵大地にある。島原路によって一野(しとの)遺跡は島原鉄道敷設工事や、国道の拡張工事等によって破壊されたが、同遺跡から、鉄剣・馬具類等が出土して、騎馬民族系の流入や、韓国文化の上陸等古代豪族大野氏の関連がしのばれる。

二、「幾長者」(木)は紀姓の大野氏
 竹内理三先生は次に、
「中世の大野氏は紀姓を唱えているが、本来は神姓で「風土記」の神、大野宿弥はその先祖であろう。又、高来に関する説話は、在地豪族大野氏の伝承にもとづいて作られたものと考えることができる」と記しておられる。更に又、有明町の大野氏の中世に紀姓を有し、深江氏の支族であると言っておられるが…。深江の浦の開発領主は有馬朝澄で、朝澄は宝治元年(一二四七)所領職を庶子、深江入道蓮忍(有馬彦五郎)に譲り、それから蓮仏—もちすみと相伝している。
 (有馬深江氏による深江の浦の地頭相伝図)
  有馬朝澄—(深江氏)—蓮忍—蓮仏—もちすみ
 深江氏(有馬氏)は、別途の通り有馬氏の支族である為、竹内先生の言われる深江氏とは、全く別系統である。それでは竹内先生の言う深江氏について述べてみよう。
 有明町(大野荘)には、「大野原」「大野ヶ浜」と言う地名がみられるように、深江町(深江の浦)にも「大野原」「大野木場」と言う地名がある。
 更に又、諏訪名の「大木」には、「紀(き)名」を称する「幾(き)屋敷」跡と、「木の宮谷」と呼ばれる居館跡がある。
「木の宮谷」は、松山水路のせせらぎが、谷に沿って流れている。西側の台地には、高は二米乃至三米余苔むした石垣が延々と続き…、台上に登る坂は石畳の道路である。「深江町誌」を執筆した上田俊之氏によると、
 台上の館跡は、南北百十米、東西六十五米とあり、母屋跡、廚屋跡、古井戸が残っていて、そのせせらぎは掘割の役目を果し、水は灌漑用水として利用され、台地と谷を巧みに配意にいれた城郭であると記している。
 平安の中期頃を過ぎると、律令体制は崩壊し荘園が出現する。開発領主と呼ばれる土豪は己の土地を大寺社、朝廷貴族に提供して荘園と称し、自ら荘官となって、荘園を支配する為に城郭を築いた。荘園や公領のなかで、水利の確立を図る為、土豪は河川に隣接する平地、己の水田が一望に見わたせる岡、水の流れる谷間等に居館を設け、館の周囲は灌漑用水を主目的とした堀を巡らしたと言う。
 「木の宮」谷の居館は、全くその理にかない、築城の時期も平安中期から、鎌倉期にかけてと推定される。
 木の宮谷には「幾(木)長者」の伝説が残っているが、「幾(木)」とは、即ち「紀」姓を称する長者のことであろう。
 海をへだてて遥かに対岸肥後路地の山々が望まれ「木の宮」「幾屋敷」の城郭居館はそのまま、続いて有明海につながっている。
 北側の混田を「観音田」と言って、堀の跡だと言う人もいる。戦後まもない頃「観音田」から、高さ一・五米余の碑が掘り出された。
 碑面には墨書の跡があり、「木の神」の文字がかすかに読みとれる。その碑は現在深江中学校に保存されている。他の一基は直径一・五米、短径〇・八米。松山海岸にある「恵比須」像の台座になっている。
 冬の季節になると、「木の宮」谷の石垣には、季節には珍しい苺が、真紅に色づいて、つややかな色をみせてくれる。植物学の森山春夫先生の論考によると、その苺の原産地は南中国の江蘇、福建省、そして台湾方面で、この地、深江の浦には、海の交易によって搬入されたものであろう。島原半島では、眉山方面にのみみられ「シマバラ苺」として県の天然記念物に指定されている。
 「木の宮」「幾屋敷」の長者は、「紀姓(木)(幾)を有した大野氏ではなかったか、有明海を中心に奈良平安期に栄えた航海民の豪族紀大野氏であったと推察される。
 大野荘(有明町)の大野氏とは全く同系統で、竹内先生が言われる深江氏とはこの「木の宮」「幾屋敷」の紀姓を指す大野氏ではなかったか。
 次章に「大野別府」(玉名市)について記すが、深江の浦の荘官安富氏と「大野別府」との関係がはっきりすれば、尚一層「紀大野氏」の存在が判然とするであろう。

三、「大野別府」との関係資料について
 高来深江の浦の開発領主は有馬朝澄で、地頭職は、朝澄の庶子深江入道蓮忍が嗣ぎ、蓮仏—もちずみと相伝したことはすでに記述したが、同地は建長五年(一二五三)執権北条時頼の下文により関東御家人安富民部三郎頼清が、深江の浦の地頭職として下向する。そのために、有馬深江民の間に悶着が起きたが、統地頭職は越中氏であった為、紛争は越中、安富氏との相論となった。後に越中氏が後退したので、所領職を巡る問題も次第に治まった。
 そして有馬深江氏は不本意のうちに歴史上から次第に姿を消して去く…。
 安富氏は頼泰の頃になると関東から下向したり「下り衆」として、鎮西引付衆の一員に加わって、島原半島に於ける基礎も定着した。そしてその頃、深江の浦の地頭職以外に漸次所領が加給され、嘉元三年(一三〇五)に安富頼泰は、肥後国玉名郡大野別府の地頭職をえている。
 「大野別府」の前知行者は島原半島の大野氏の一族と推察される。瑠璃童女跡となっている。どういう次第で前知行者が改易になったか不明であるが、「深江文書」の関係項目を抽出すれば、紀大野氏であることは明確であり、又、後述する太田亮先生の「姓氏家系大辞典」の大野編をみても、「『紀姓』大野氏は、高来郡大野荘より起こる。肥後の「紀姓」は肥前高来郡の大野氏とは同族にして「大野別府」は高来大野氏の分地なり」とはっきり明記してある。
 「別府」とは、元来平安朝以後の荘園から行ったものである。正規の手続きで、政府か太政官等の文書で、貴族社寺が私有地として許可された土地が荘園であるが、この中心となる本領を本荘と言うに対して、その本荘に附属する系地や、原野の開発を国司等の下級官庁の裁量が許可した場合、その文書を前の太政官等に対して「別府」と呼んだ。肥後の「大野別府」は紀大野氏の附属地である。いつの時代に認可になり帰属したか不明であるが、その本荘は島原半島であった筈である。
 大野荘の大野氏か、或いは深江浦の幾(木)長者、又は紀大野氏か、何れかがその本荘であったろうと推察されるが、はっきりしない。
 有明海を越えて、肥後の「大野別府」が深江の浦の安富氏にその所領が加給されたことに注視すべきであろう。

鎌倉期に於ける安富氏の所領(深江文書より)

宝治元年(一二四七)
 有馬左衛門尉朝澄高来東郷内深江の浦地頭職を深江入道蓮忍(有馬彦五郎)に譲る。

建長五年(一二五三)
 安富民部三郎頼清執権北条時頼の下文を賜い肥前国高来東郷深江の浦の地頭職となる。

建治三年(一二七七)
 藤原みちもと(多比良氏)ゆいさきの内一段(あきまろの園)を銭五十貫文で大野氏に売り渡す。

嘉元三年(一三〇五)
 執権北条師時肥後国大野別府岩崎村瑠璃童女後を安富頼泰に与える。

元享二年(一三二一)
 紀頼澄(大野頼隆の子)肥後玉名郡西郷別府の内なえの村西山寺半分の地頭職を子息弥王丸に譲る。

元弘二年(一三三二)
 安富貞泰その子恩房丸(岩崎孫三郎泰治)に肥後国大野別府内岩崎村地頭職を譲る。

建武三年(一三三六)
 請取肥後国大野別府内大野小次郎弘隆知行分所領文書等
 三通関東御下文 八通八蓮譲状 一通弘隆譲状
 一通浄西譲状 一通浄園譲状
 二通戒善譲状 二通頼隆譲状
 右文書等正巳上拾参通為享進請収候
 為深江領主安富民部丞泰重擧状代官良澄法眼彼文書等請取知件

 安富頼泰は、元弘二年(一三三二)に大野別府岩崎村の地頭職を二男泰治(岩崎孫三郎泰治)に譲っている。そして建武三年(一三三六)には、「大野別府」紀頼澄(大野頼隆の子)から相伝した大野小次郎(弘隆)の所領職等の証文を代官澄法眼の手を経て、安富泰重が請けとっている。そして「大野別府」の所領職は、紀大野頼隆・頼澄、そして紀大野小次郎弘隆に相伝されていたことがはっきりする。
 如何なる理由によるものか、不明な点も多いが、紀大野弘隆は改易されたものと推察するが妥当であろう。
 それでは次に「姓氏家系大辞典」を編さんされた太田亮氏の「大野氏」の項を抽出してみよう。


<大野氏>

神代氏
 肥前風土記 高来郡篠に「景行天皇が神大野宿弥をして高来に遣はす」に記事あり、或いは高来郡大野より起こりしか

紀姓
 肥前国高木郡大野荘より起こる 深江文書に紀有隆見え大野と註す。又元享二年八月廿七日のものに紀頼隆見え「大野有隆の子」と註す 又弘安四年神崎庄分配に「大野岩崎太郎」あり…この氏は紀姓にして鎌倉頃栄えしが…
肥後の紀姓
 前項大野氏と全く同族にして、玉名郡大野荘に拠る
 この地は後述の如く大野別府と見え 而して有明海を隔てて肥前高来郡大野庄と相対す。即ちこの別府は肥前大野荘の分地にて別府を以て荘園となりしものと考えられ、この大野氏は肥前大野氏の分族なるを知るなり…。
 されど、この地の大野氏 一と肥前高来のことを言わず後世全く分離して関係を絶ちしなか
 大野氏の一族多く肥前 より この地に移りしを知るべし

「肥後の紀姓」の末尾にもみられるように、「…されどこの地の大野氏 一も肥前高来の事を言はず 後世全く分離して関係を絶ちしか」、と言うことは、早き時代に於いて、肥前、肥後の大野氏の関係が断絶したものか、あるいは、本荘と別府の両者間に好ましくない関係が生じたものか、推量の域を出ないが、肥前、肥後共に紀姓を有する大野氏であることにはかわりない。
 血族を一つにした神「大野宿弥」の流れで同一系統であったこといは違いなかろう。

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コメント

■大野様
ご先祖様が玉名にいらっしゃるなら、肥後の名門菊池氏の家臣であった大野氏の後裔である可能性は高いですよね。
菊池氏とか筑後の蒲池氏とかつながりがあるとかないとかいろいろあるみたいで、私はそっちの方まではくわしくありませんので、肥後の各地の市町村史とかをお調べになると興味深いんじゃなかろうかと思います。ご先祖様のことがわかるといいですね。
私は本読んで妄想してるだけのただの妄想家で、私がいろいろ言ってることは世間から見るとオカルトでしょう。

ぎんくじら様

お返事どうもありがとうございます。

『高来郡の歴史』という文献があるんですね。
いつか原書を読んでみたいと思います。
大野姓は紀氏系とは伝え聞いているものの、物部氏、三輪氏の背景についてはよく知らず、
ぎんくじら様の知識、推察はすごいと思います。

ぎんくじら様はいったいどんなお方なのでしょうか。

私は高校卒業までは熊本におりその後、海外の大学を経て、今は東京で航空業界にて
部品調達系の仕事をしております。


■大野様
ご覧下さりありがとうございます。
この文章は『高来郡の歴史』の中で紹介されていた文献です。
神大野宿弥の「神」は「かむ」だったり「みわ」だったりと説があるようです。三輪氏のミワだったとしても、大野氏は紀氏系だと言われてるようですから、元をたどれば物部と同祖と言うことになるので、ミワでも関連があるように思います。また火君の祖として「多(おほ)氏」もいますので関係あるかもしれないと私は思います。

はじめまして。
玉名市滑石出身の大野です。

自分のルーツをネットで検索していて、
大変興味深く読ませて頂きました。

調査力、考察に感嘆いたしました。
親族に紹介したいと思います。
どうもありがとうございます。

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